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マハトマ・ガンジーはいいました。
『弱い者ほど相手を許すことができない。
許すということは、強さの証だ』


しばしば語り合う事なのですが
スピリチュアルについて以前友人と語りあったことがありました。
言葉をとり間違っていたらその人に申し訳ないんだけど
「スピリチュアル系の人は憎しみを感じていないようだ。
憎しみっていうのは人間の感情だから
憎しみを感じないのは不自然だって思う」
そのようにその人は話していました。

スピリチュアルの世界に足をいれると
彼らは得てして笑顔であることが多いです。
あたしからみれば正直、不自然な笑顔に感じてならないんです。
(というかそういう人を何人も見てきたのでそう思ってしまうんですけどね...)
あたしの心がひねくれていたり批判的目線であるからだと思っていましたが
友人も同じようなことを感じたように聞き取りました。
憎しみを我慢しつづけると不自然な笑顔になる気がしてならないのです。

人間は生きる年数を重ねるたびに
感情が表情に刻み込まれてくるもの。
本当に心から、すべての人を許しわかちあうのは
いってみれば理想論であり机上の空論とも思います。
まず身近にある憎しみと向き合い
対象を理解して受け入れていくのは成長のプロセスの大きな第一歩です。
彼らはそういうもの(世間のしがらみ)をあえて避けているように、あたしの目には映るのです。
スピリチュアルでは魂の成長をよくいいますが
いわゆる現世でのしがらみを通してそれに直面して、
経験して、切磋琢磨して成長していくほうが
よっぽど人間らしいとあたしには思えるんです。
スピリチュアルの世界で魂を成長させようとする人も
結構見かけたりしますが
あたしからみたら単なる人生の経験不足でしかないと思うんです。
何の苦労もなしに魂を成長させようと考えている人たちがもしいるとすれば
それは自分やスピリチュアル業界の都合でしかないような気がしてなりません。
人間の成長は何か困難などの壁につきあたったとき
それを乗り越えたときに得られるものだと思うからです。
そういうことをせずに単に魂の成長というコトバに惑わされているだけの人はナンセンスでしかないと思うのです。
すべての人を許せる人、受け入れる人、すべてを愛せる人は
逆に人間らしくない気がするのです。
もしそれができるとすればおそらくは神です。

憎しみは人間ならば誰にでもある感情であり
なぜこのようなものがあるかといえば
人間を成長させるために神が与えた感情だと思うのです。

あたしの場合はまず相手への憎しみの気持ちはいったん
自分の中で「肯定」します。
そうやって、まず最初に憎しみを抱くことは必ずしも悪くはないんだと自分を納得させます(笑)
そしてその感情を「保留」させておきます。
次に、その相手について、なんで気に食わないかをよく考察してみることにしています。
その内容は千差万別です。
どんなに親しい人だって、家族だって
ここはイヤだとかって部分は確実にある。
それは当たり前のことです。
だって相手は自分ではないのだから。
だけど自分に対してもイヤだって思うことってたまにあるじゃないですか。

相手を受け入れているし理解している、そう思っていたとしても
何か壁にぶつかったときにはじめてその問題点に気づきます。
こんなところがひっかかる、気に食わない、
そのくらい人間として当たり前なのです。
一番厄介なのは「相手を理解してるつもり」になることです。
理解している、と思い込んだところで
所詮は自分の物差しで相手を見ているものだからです。
これは言葉を変えれば自分の都合、でもあります。
逆に相手のモノサシに自分の物差しを合わせようとしてばかりいると
知らず知らずのうちにストレスをためていきます。
この矛盾をわかっていない限り繰り返して何度も起こる感情なのだと思うのです。

こういうことはやはり男女関係で一番よくいわれます。
男女の違いがあるのはもちろんありますけどね。
だからこそこじれたものは修復が困難だったりもします。
男と女は一生わかりあえないと思います。
どんなにわかりたくてもね。
逆にいえばわからないからこそ
魅力を感じてひかれあうのでしょう。
相手をすべてわかってしまったら
少なくとも恋ではなくなります。
恋というのはモノサシを相手に合わせているかんじ、
愛というのは相手を受け入れる感じだってあたしは思ってます。
男女関係がいちばんわかりやすいパターンですが
人間関係すべてがそうだって思います。
でもなかなかできないからこそ宗教など、人類永遠のテーマとしてよく説かれるのだって思います。
恋愛は人生の経験のステージですよね(苦笑

それでも一緒にいたいって思うのは
友情とか愛情ってもんは
それを塗り替えるくらいの大きなパワーがあるってことだね。

憎しみの気持ち。
それが「誰か」に向かっているとき
もしかしたら本当は「自分」に向けられたものなのかもしれません。
「誰か」に自己投影しただけかもしれません。
結果的に憎しみという感情は自分で自分を苦しめてしまうものなのです。

赦すことっていうのは相手を理解して受け入れることです。
相手を受け入れてるつもりでも
いざカベにあたったとき、はじめて、自分は本当は相手を受け入れているんでなく、単に相手にあわせているだけなのかもな
なんて思い直します。
相手を真の意味で理解して受け入れているならば
人間同士対立することはないと思いませんか?

他人は所詮自分ではないんですよね。
生まれも育ちも環境も考えも違う他人なんです。
相手を受け入れることと、相手に合わせることでは
残念ながらまったく意味合いが違ってきます。
それは相手にあわせるのは自分の都合も含むからなんです。
だけど、相手を、自分以外の誰かを、
「理解しよう」という姿勢が何よりも大切なんですよね。

赦すこと、理解することっていうのは、おそらく永遠の人類のテーマだって思います。
なぜならば多くの宗教や思想というものが
愛をテーマに説いていたり、その内容は赦すことや受け入れることがメインです。

愛と憎しみはよく引き合いにだされます。
一見してこの二つは双極関係です。
でもそれって本当でしょうか?
愛の対極は憎しみではないような気がします。
憎しみの正体は恐れなんだと思うんです。
正体というより根というのかな。

恐れはもっとも原始的な人間の感情だって思うんです。
そもそも憎しみというのは対象人物があって初めておこる感情だからです。
それに相手に対してそれなりの興味がなければ起こる感情ではありません。
つまり興味のあるような相手が存在しなければ憎しみという感情はありえません。
では本当に自分ひとりぼっちになってしまったら憎しみがなくなり楽になるのでしょうか。
ひとりになったときに今度、戦わなければならないのは不安や恐れだと思うのです。

自分以外に誰かが存在しうれば憎しみの発生する確率はあるものです。
誰かを憎むことや恨むこと、許せない気持ちはとてもつらいことです。
許せないというのは結局自分がつらくなるんですよね。
でも人間が成長するために必要な感情です。
憎しみはベクトルを変えれば向上心にもなりえます。
不安は結局不安でしかありません。

よく耳にする言葉が「自分を赦すことは他人を赦すこと」っていいます。
これはどういう意味かというと
相手を憎んだり赦せないでいる自分がいる限り
いやな気持ちはずっと続いてしまいます。
相手を赦すことは自分を赦すこと。
それは、相手を赦せないと思っている自分、を赦すことです。
とても難しいテーマです。
一生かかってもできない人のほうが多いかもしれません。

憎しみをもってして自分の弱さを気付かせてくれる存在は大切です。
なぜならば憎しみは自分の弱さを乗り越えるチャンスだからです。
憎しみを消すことはむつかしいことです。
だけど相手を許せるということはうれしいこと。
憎しみを乗り越えて相手を理解しようと努力し、許そうとし、受け入れようとしていくことは
自分が成長できるかなり大きなチャンスですよね。
なかなか難しいことではありますが
チャレンジしがいがあります。

今の時代はどうしても人間関係が希薄になりがちです。
ネットなどの文字だけのバーチャルな世界だと
自分の想像や思い込みが優先になります。
憎しみが結局は自分をふりまわしていると書きましたが
ネットの場合は自分の受け取り方でどうとでもとれます。
よくブログが炎上したり
荒れた掲示板をみるとひとつのことばに対してこれだけの受け取り方があるなと
よく思ったりします。
ことばはイキモノです。
一見それは文字でしかありませんが
たとえば学校の裏サイトのように
時に誰かを死にまで追い詰めることすらあります。
ことばは暴力以上の武器にもなるということです。
だから気を付けないといけないなとときどき思います。

憎しみは自分をかえていくチャンスではありますが
憎しみは憎しみをよんでしまうことのほうが実際は多いです。
憎しみを抱いたときにすることは決して我慢することではありません。

スピリチュアルやニューエイジ系の人が憎しみを感じていないかどうか
それはあたしにはわかりません。
憎しみを感じていてもオモテに出さないように自己訓練しているのかもしれないし、
悟りを開いているのかもしれないし。
少なくとも人間として最低限、
憎しみはあると思います。

幼いころ両親に虐待されてきたりの人は
そういう感情が麻痺していることも実際多いです。
それは痛みなどの感情を「感じないように」生きてくるケースが多いからなんです。

憎しみや怒りを知らなければ、
誰かを許すことなんて決してできない。
苦しさや悲しみ、挫折などを味わってみてはじめて
誰かにやさしくできる。
自分を赦してからこそ
はじめて誰かを赦すことができたり、
自分が傷ついて苦しんで辛くなって
弱っているときこそ周りの優しさが身にしみる。
これまで知らなかった誰かの一面を知るきっかけにもなる。


何度もここで書いていることですが
魂の成長っていうものは
辛い経験なしには得られないものだと思います。
瞑想だけしてれば悟りを開いて成長できるってもんではありません。
何事も経験なのです。
人生は魂の経験の場です。
苦しみがあるからこそ
喜びという感情があるのです。
辛いことや苦しいことを乗り越えない限り、
そういったプロセスを踏んでこそ
はじめて魂の成長が実感できるものだと思うのです。
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