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以前スピリチュアル・ブームとマインド・コントロールの関連性について書きましたが
核心に迫った第二弾w
っていうかんじですねw
ここでしばしばテーマにし、書いていることなのだけど
今のスピリチュアルブームと宗教っていうものを一部混同させて、
そのまま宗教勧誘にもっていくケースが多いのではないか
ということが今回のお題。
今日の朝、とある大きい宗教関連団体が
小冊子をポストにいれていった。
あたしはそれを読んだからといって
そこの信者になることは確実にないという自信があったのでそれを軽く読んでみた。
あたしはかつてクリスチャンスクール(プロテスタント)に通っていて毎日礼拝があって
聖書も毎日読んでいました。
しかし、聖書だの牧師さんの説教にもツッコミいれまくっていたという
あたしのこの心の腐りよう(笑)
要するに常にギモンを抱いているタイプの人間なのだけど
常に疑いを何にでもかけてしまうという悪い癖でもありますねw
その宗教関連団体の冊子には以下のコトバが連呼されていた。
「魂」「オーラ」「カルマ」「天使」「因果」「輪廻」のコトバ。
まさしく典型、である。
信者の方々の写真があったりした。
彼らはなぜか独特の笑顔に思える。
心からの笑顔ではないように思えるのはあたしがひねくれてるからかもしれないけど
かといって営業スマイルでもない独特の「微笑み^^」
「笑顔と赦し」の関係はまた機会があったら書きます。
あたしは基本的にアキっぽいし、虫のいい人間なので
これまで宗教論や哲学、ヒーリング、スピリチュアル、心理学、社会学、精神分析、精神医学と
さまざまな世界を「かいつまんで」きた。
ひとつの世界にどっぷり浸るのもいいけど
あたしはいろんなことを知識として貪欲に吸収していきたいし
それらをいずれ智慧に変えていければいいナと思っている
(それがうまくいかないのだw)
自分では現在、これが「正義」だ。
クリシュナ・ムルティは「あなたが世界だ」といったけど
(Vol.45 ヒプノセラピー参照)
他人からみてたとえ
「あの人はいろんなものが中途半端だよねw」
と思ったにしても、確かにそれは事実なんだけど(笑)
あくまでもあたしはそのやり方で通しているのは
あたしにとってこれが正しいし必要性もあるし、あっていると思うからだ。
そして宗教にハマる人というのもこれもまた自分にとっては「正義」。
いくら他人がマインドコントロールされているとその人以外のすべてが思ったにせよ
その人にとっては正義なのだ。
その入ってきた宗教冊子は「正義」が散りばめられていた。
それをかいつまんでいうとこんなことがかいてある。
(ひらがなもふってあったので小さい子にも読めるようにしたのでしょう)
「総理大臣や大統領は光の天使ではない」
↓
「ナチスドイツでガス室にいれられたのは特に悪いことをしたわけではない」
↓
「キリストも十字架にかけられた犯罪人になってしまう」
↓
この世の中はよい行いをしたからといってよいことがおきるわけではない。
といってむすんでいる。
となるとどうか。
そこで「来世」についてでてくるのだ。
「過去世での修行や行いが現世に展開されている」
「現世ではカルマがのこってその宿題が来世に持ち越される。」
確かにそうだ、というか、そういうことになっている。
さっきまでキリストは救世主だと話していたのに
いつのまにか親鸞の三世因果について話が摩り替わっている。
これじゃツッコミ入れてくださいよ〜っていわれてるかんじじゃないすか(笑)
これについては因果経に
「前世の因を知らんと欲すれば其の現在の果をみよ、後世の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
と記されている。
過去やったことが今のいわゆる業(いわゆるカルマの)で今やっている行いが来世につながっていくのだよということなんですがね。
この冊子では解釈の仕方がちょっと違うようで。
そもそも
「この世の中はよい行いをしたからといってよいことがおきるわけではない。」
という考え方自体があたしにとっては「正義」ではないのだ。
キツイ言い方をすればそれらは逃避にしか見えないのだ。
たとえばそれがカースト制度とかの自由のない身分関係のものだったり
そういう変えられない運命的なものがあればそういった宗教の必要性もわかる。
それをいうとあたしなりの宗教論になってしまうので
ここでは検索されたりで、書きにくそうなので書かないけど
「過去世での修行や行いが現世に展開されているから、
現世でこんな状況なのは仕方ないから来世に期待をかけよう」的な思考は
あたしの中では少なくとも一切持ち合わせないのは確かだ。
そしてそのあたりがスピリチュアルと宗教の大きな違いでもあるのではって思うんだよね。
スピリチュアルはそもそもアニミズムに限りなく近いと思うのだ。
スピリチュアルの世界だと、過去世という考えはでてくるけど
来世に対する考えは目にしたことがこれまであたしはない。
おそらくスピリチュアルの世界っていうのは
過去世からのカルマを現世で癒して、生きている間は魂を成長していく
という考えに基づくのだからだと思う。
だって今、生きているんだもん、今を楽しまないとって思うよ。
だけどそこの宗教の祖がいうには、そういうものは「エゴ」にすぎないといっているようなのだ。
ちょっと考えればエゴというコトバの用い方がなんだかおかしいことに気づくはずだ。
しかし心迷える人たちは、おそらくそれすらも気づかず
何かにすがってしまいたい気持ちでいっぱいだろう。
ここでフロイトやユングの話はあえてしないけど、
人間は生きている限り「エゴ」は必ずあるものだ。
それはモチロン決して悪いことなんかではなく、
人間としてイデア界に実存している証だ。
もっといえばエゴ(自我)があるからこそ自らが存在しうるわけだし、
ゆえに哲学が、形而上学が存在しうるのだと思う。
(ちなみにトマス・イクイナスが存在論を形而上学の基礎に構成した)
〜私は思う。ゆえに私は存在する〜
(Cogito, ergo sum. ; Je pense, donc je suis.)
などは哲学を知らなくても聞いたことがあるくらいに有名な
デカルトのコトバだ。
...というか哲学の話をしだすと暴走しそうなのでやめときますが(笑)
自我は自分そのものの意識だ。
そしてイドという無意識の部分、いわゆる本能的欲求の部分があって、
スーパーエゴ(超自我)とよばれる、倫理的な善行を伝えるもの(殺人はいけないとか)
そういう3つがうまくバランスをとりながら、時には葛藤しつつ生きている。
ちなみにスピリチュアルでいうところのハイヤーセルフや天使の存在、魂という言葉は
おそらくは、わかりやすくいえばスーパーエゴの認識に近くて
さらにそれを越えた自己拡大意識といったところか。
考えてみてほしい。
そもそもエゴ、いわゆる自我を無くした状態こそが
マインドコントロールにほかならないのではないか。
この教祖様は「エゴはよろしくない」とおっしゃられてるらしく
いったい何を自分からいっておられるのかと、
もしやご乱心だったのかと(笑)
ひねくれ者のあたしはこう思うんですよね(笑)
自分が生きて自分の心を自分でコントロールしている限り
それはエゴであるわけで、
誰かにコントロールされている状況というのはエゴを失った状態であり、
マインドコントロールなわけですよね。
そもそも煩悩を捨て去ることとエゴを捨て去るというものはまったく違うもの。
煩悩とは自分を苦しみ悩ませる、智慧を妨げる心をさすわけだから、
あたしなんて煩悩オンリーですよ(笑)
その冊子には三世因果(仏教でいう過去世、現在世、未来世の因)について
「もっともらしく」かかれていたり
浄土真宗がでてきたと思えばキリストの教えがでてきたり、
かと思えば政治の話がでてきたり
哲学の話が出てきたり。。。
あたしも確かにそういう中途半端な人間ですけど(笑)
だからなおさら思うのだけど
「それにしても中途半端な宗教だよなw」ってね。
もしどんなにそれがいい教えだったとしても、
その教えを「聖典」や「聖なる書」にしてしまった時点で
その教えは息をしていないとあたしは考えています。
なぜならば現在の世界状況を見ても明らかなように
純粋な信者とそれの政権を握った人たち(幹部など)の間では
かなりの温度差があるのではないのでしょうか。
その時点で、どんなにいい教えもその機能を果たしていないのだと思ってしまうのですよね。
苦しいから、悲しいからこそ生きているって感じるんですよ。
苦しみや悲しみを知らない人には喜びや楽しさはわからないって思います。
時に絶望を味わったとしても、
だからこそ喜びを味わえるというのは
病気をしてみて初めて健康のありがたみがわかるのと同じだと思うのです。
初めて健康の大切さとか感謝の気持ちをいっそう強く実感できるのです。
そして、あらゆる宗教の教えというものは
愛について説かれていたりしますが
愛なんて誰に教わるものでなく
(心理学的にいえば母親から教わるわけなのですが)
幸せの定義だなんて誰にきめられたものでもなく
自分の中の経験と智恵から得られるものでもあると思うんです。
誰かとの共有体験じゃないのか!と思うだろうケド
誰か、の本当の気持ちはその「誰か」しか知りえません。
自分という意識が感じる誰か、でしかないと思うのです。
遠まわしに「愛なんて結局幻想よね〜w」
っていってるように聴こえますかw
いや、愛は自分の中に誰にでも備わっていて(いわゆるスーパーエゴみたいなもの)
それをさまざまな経験をもって感じたこと(いわゆるエゴ)
を栄養にしながら育てていくものじゃないかってことをいいたいわけです。
神の存在についての是非やスピリチュアルの世界でよくいわれている「天使の存在」もだけど
人間固有がそれぞれもちあわせるアーキタイプとか元型っていわれる存在だって思うのですよね。
まぁ色気も味気も夢もない表現ですがw
あたしは誰かに与えられた定義より
自分を見つめて、自分なりの経験や智恵をもって
一生かかって愛とか幸せとか豊かさを
その時々にカスタマイズしながら作りあげて生きたいって思います。
愛も幸せも豊かさも真理も、
生きている人の数だけあるものだって個人的にとても思うんだよね。
あたしにとってスピリチュアルもヒーリングも、
そういうものを作り上げるためのツールでしかないのです。
豊かな人生を送るための手段であって目的ではないのです。
あたしはそのツールとして選んだのがたまたまスピリチュアルやヒーリングであったってだけであって
何を用いてその人が幸せになるかというのは
個性とか性質とか、その人それぞれだって思います。
そんなふうにスピリチュアルと宗教というのは極めて似た部分(コトバ)を持つのは確かなんだけど
少し興味を持ってスピリチュアルを調べていけばそれらはまったく違うことがわかるはずなのだよね。
しかし某テレビ番組などの影響などもあって
魂とかオーラとかカルマとか、
そういうコトバだけが走ってしまっている気がしてならない。
あたしはそれにすごく危険性を以前から感じている
(よってその番組は見たことが一度しかない)
おそらくはヒーリングとスピリチュアルの違いすらわからない人も多いのではないだろうか。
今、霊感占いといっては宗教にもっていく、いわゆる霊感商法が去年から多発しているそうだ。
たしかにこれは自己責任とはいえ、マスコミが魂だ、オーラだカルマだと煽った功罪は大きい。
しかし、それ以上に何かにすがりたいがために
自分の全てをそういう方面(スピリチュアル)にもっていくことの危うさをも秘めていると思うのだ。
なぜそのような番組がはやるかといえば、
やはり誰にも相談できず、もしくは相談しても解決できず
悩んで苦しむ人やストレスを抱え込んでいる人が実に多いからだと思うのだ。
スピリチュアルにハマりすぎるのもグラウディング、
要するに地に足をつけられない状態っていう、それもまたある意味危険なのだけど。
(だって「現実界」に生きているわけだからね)
現実、現世に生きている以上、
それは日常生活を伴うものだし、
息抜きとしてのスピリチュアルやヒーリングならばいいのだけど、
実際問題生きていればムカつく、ウザいことだってたくさんあるし
逃げたいくらいに悲しいことや苦しいこともたくさんある。
そこをどう生きていくか、乗り越えていくか、というのが
まさに智恵であったりするのだと思うのですが
そういう状況に直面したとき、
自分がどう受け止めて、どのように自分の心とうまくつきあって
状況を脱しどうやってよりよく生きていくか、
そういうのはやはり
「経験や知識をベースにするもの」
ってあたしは思うんだ。
失敗をするからこそ、苦い思いを幾度となく経験して
次回はこうならないように、
じゃ、次のプロセスではどうすべきなのか考えよう、
...とよくしていくことを考えるわけだ。
要するに失敗を繰り返さない限り成功は決してありえないわけで
なんだかどこかの成功哲学の本みたいな偉そうなことをいってますが(笑)
逆に言えばあたしのMy哲学からいえば人生に成功っていうのはないんだよ。
以前も「勝ち組」「負け組」ってコトバ(競争社会)がイヤだと書きました。
だって成長のペースっていうのは人それぞれだから
勝ち負けを早くつけようとするのはどう考えてもおかしいと思うんだ。
勝ち組と世間からいわれてた人が必ずしも
「内なる幸せや豊かさ」(←これもスピリチュアルの世界でよく使われるw)を感じているとは限らないだろう。
「成功したから自分は勝ち」と思ったら
その人の成長はそこでもうおしまいだと思うのだ。
あたしも大学に受かったとたん勉強手抜きしまくったもん(爆)
今になってもっとマジメにしてればこんなアホにならなかったって思っていますよ(苦笑)
要するに、ここまではやってこれたけど自分の成功はまだまだ先だって思って自分を追いかけていく人こそ
真の意味で豊かであり幸福なんだと思うのだけど、
どうだろう。
要するに日々精進すべきなんですよ。
何よりもそういう向上心が生きていくうえで、
生きがいっていう意味でもっとも大切なんだって思います。
それは介護をやっている今現在祖母をみていてすごく実感しています。
介護に携わるうちに人生の生きがいというものについてすごく考える機会が増えました。
失敗があるからこそ成功を目指して向上しようとできるのだよね。
ゆえに智慧というのはこれまで自分が生きてきた証のデータベースなんだろうなと思うようになりました。
今スピリチュアルが確かにはやっています。
数年前までヒーリングブームで「癒されること」に重きをおいていたのが
誰かを「癒したい」人というのも増えてきた気がします。
マクロビオティックがはやったりレイキをやる人も少しずつ増えてきたり
日本は日本に戻ろうとしてるのかなって最近よく思います。
いわば免疫力みたいなものですね。
そしてそのスピリチュアルの延長という感覚なのか
古神道も注目されはじめたりしています。
中でも注目を集めているのは岡本天明氏の自動書記によるといわれている
日月神示(ひつきしんじ)。
たとえばマナーがなっていなかったり、
人に迷惑をかけていることすらわからずにいるという
「感覚が鈍ってる人」が多すぎるよね。
自分勝手な人が多いとはいうけど、
あたしからいわせたら個人主義と利己主義を履き違えている人が目に余るほどいる気がします。
日本が美徳としていたものは、そもそもは礼節だったのではないかと思うの。
スピリチュアルがはやっているのは確かにストレス社会であることはいえるのだけど
それよりももっと「今を生きていくための救い」を人々が求め始めているのではないだろうか。
あふれかえった物質の世界に疲れ果てた結果、
流せずにいる涙を精神世界に求めているのかもしれない。
そんなわけで日月神示云々や宗教抜きとかでも
もっと日本はあるべき日本の姿に戻るべきなんだって思います。
いや、今話題の「美しい国日本」とかいってる人にはまずムリかと思われますがw
一人一人の思いやりと感謝とが大切ですよね。
以下「日月神示」より抜粋しました。
友人に教えてもらったサイトにあったのですが
もし興味があれば長いですが読んでみるのもいいと思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/161030.htm
核心に迫った第二弾w
っていうかんじですねw
ここでしばしばテーマにし、書いていることなのだけど
今のスピリチュアルブームと宗教っていうものを一部混同させて、
そのまま宗教勧誘にもっていくケースが多いのではないか
ということが今回のお題。
今日の朝、とある大きい宗教関連団体が
小冊子をポストにいれていった。
あたしはそれを読んだからといって
そこの信者になることは確実にないという自信があったのでそれを軽く読んでみた。
あたしはかつてクリスチャンスクール(プロテスタント)に通っていて毎日礼拝があって
聖書も毎日読んでいました。
しかし、聖書だの牧師さんの説教にもツッコミいれまくっていたという
あたしのこの心の腐りよう(笑)
要するに常にギモンを抱いているタイプの人間なのだけど
常に疑いを何にでもかけてしまうという悪い癖でもありますねw
その宗教関連団体の冊子には以下のコトバが連呼されていた。
「魂」「オーラ」「カルマ」「天使」「因果」「輪廻」のコトバ。
まさしく典型、である。
信者の方々の写真があったりした。
彼らはなぜか独特の笑顔に思える。
心からの笑顔ではないように思えるのはあたしがひねくれてるからかもしれないけど
かといって営業スマイルでもない独特の「微笑み^^」
「笑顔と赦し」の関係はまた機会があったら書きます。
あたしは基本的にアキっぽいし、虫のいい人間なので
これまで宗教論や哲学、ヒーリング、スピリチュアル、心理学、社会学、精神分析、精神医学と
さまざまな世界を「かいつまんで」きた。
ひとつの世界にどっぷり浸るのもいいけど
あたしはいろんなことを知識として貪欲に吸収していきたいし
それらをいずれ智慧に変えていければいいナと思っている
(それがうまくいかないのだw)
自分では現在、これが「正義」だ。
クリシュナ・ムルティは「あなたが世界だ」といったけど
(Vol.45 ヒプノセラピー参照)
他人からみてたとえ
「あの人はいろんなものが中途半端だよねw」
と思ったにしても、確かにそれは事実なんだけど(笑)
あくまでもあたしはそのやり方で通しているのは
あたしにとってこれが正しいし必要性もあるし、あっていると思うからだ。
そして宗教にハマる人というのもこれもまた自分にとっては「正義」。
いくら他人がマインドコントロールされているとその人以外のすべてが思ったにせよ
その人にとっては正義なのだ。
その入ってきた宗教冊子は「正義」が散りばめられていた。
それをかいつまんでいうとこんなことがかいてある。
(ひらがなもふってあったので小さい子にも読めるようにしたのでしょう)
「総理大臣や大統領は光の天使ではない」
↓
「ナチスドイツでガス室にいれられたのは特に悪いことをしたわけではない」
↓
「キリストも十字架にかけられた犯罪人になってしまう」
↓
この世の中はよい行いをしたからといってよいことがおきるわけではない。
といってむすんでいる。
となるとどうか。
そこで「来世」についてでてくるのだ。
「過去世での修行や行いが現世に展開されている」
「現世ではカルマがのこってその宿題が来世に持ち越される。」
確かにそうだ、というか、そういうことになっている。
さっきまでキリストは救世主だと話していたのに
いつのまにか親鸞の三世因果について話が摩り替わっている。
これじゃツッコミ入れてくださいよ〜っていわれてるかんじじゃないすか(笑)
これについては因果経に
「前世の因を知らんと欲すれば其の現在の果をみよ、後世の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
と記されている。
過去やったことが今のいわゆる業(いわゆるカルマの)で今やっている行いが来世につながっていくのだよということなんですがね。
この冊子では解釈の仕方がちょっと違うようで。
そもそも
「この世の中はよい行いをしたからといってよいことがおきるわけではない。」
という考え方自体があたしにとっては「正義」ではないのだ。
キツイ言い方をすればそれらは逃避にしか見えないのだ。
たとえばそれがカースト制度とかの自由のない身分関係のものだったり
そういう変えられない運命的なものがあればそういった宗教の必要性もわかる。
それをいうとあたしなりの宗教論になってしまうので
ここでは検索されたりで、書きにくそうなので書かないけど
「過去世での修行や行いが現世に展開されているから、
現世でこんな状況なのは仕方ないから来世に期待をかけよう」的な思考は
あたしの中では少なくとも一切持ち合わせないのは確かだ。
そしてそのあたりがスピリチュアルと宗教の大きな違いでもあるのではって思うんだよね。
スピリチュアルはそもそもアニミズムに限りなく近いと思うのだ。
スピリチュアルの世界だと、過去世という考えはでてくるけど
来世に対する考えは目にしたことがこれまであたしはない。
おそらくスピリチュアルの世界っていうのは
過去世からのカルマを現世で癒して、生きている間は魂を成長していく
という考えに基づくのだからだと思う。
だって今、生きているんだもん、今を楽しまないとって思うよ。
だけどそこの宗教の祖がいうには、そういうものは「エゴ」にすぎないといっているようなのだ。
ちょっと考えればエゴというコトバの用い方がなんだかおかしいことに気づくはずだ。
しかし心迷える人たちは、おそらくそれすらも気づかず
何かにすがってしまいたい気持ちでいっぱいだろう。
ここでフロイトやユングの話はあえてしないけど、
人間は生きている限り「エゴ」は必ずあるものだ。
それはモチロン決して悪いことなんかではなく、
人間としてイデア界に実存している証だ。
もっといえばエゴ(自我)があるからこそ自らが存在しうるわけだし、
ゆえに哲学が、形而上学が存在しうるのだと思う。
(ちなみにトマス・イクイナスが存在論を形而上学の基礎に構成した)
〜私は思う。ゆえに私は存在する〜
(Cogito, ergo sum. ; Je pense, donc je suis.)
などは哲学を知らなくても聞いたことがあるくらいに有名な
デカルトのコトバだ。
...というか哲学の話をしだすと暴走しそうなのでやめときますが(笑)
自我は自分そのものの意識だ。
そしてイドという無意識の部分、いわゆる本能的欲求の部分があって、
スーパーエゴ(超自我)とよばれる、倫理的な善行を伝えるもの(殺人はいけないとか)
そういう3つがうまくバランスをとりながら、時には葛藤しつつ生きている。
ちなみにスピリチュアルでいうところのハイヤーセルフや天使の存在、魂という言葉は
おそらくは、わかりやすくいえばスーパーエゴの認識に近くて
さらにそれを越えた自己拡大意識といったところか。
考えてみてほしい。
そもそもエゴ、いわゆる自我を無くした状態こそが
マインドコントロールにほかならないのではないか。
この教祖様は「エゴはよろしくない」とおっしゃられてるらしく
いったい何を自分からいっておられるのかと、
もしやご乱心だったのかと(笑)
ひねくれ者のあたしはこう思うんですよね(笑)
自分が生きて自分の心を自分でコントロールしている限り
それはエゴであるわけで、
誰かにコントロールされている状況というのはエゴを失った状態であり、
マインドコントロールなわけですよね。
そもそも煩悩を捨て去ることとエゴを捨て去るというものはまったく違うもの。
煩悩とは自分を苦しみ悩ませる、智慧を妨げる心をさすわけだから、
あたしなんて煩悩オンリーですよ(笑)
その冊子には三世因果(仏教でいう過去世、現在世、未来世の因)について
「もっともらしく」かかれていたり
浄土真宗がでてきたと思えばキリストの教えがでてきたり、
かと思えば政治の話がでてきたり
哲学の話が出てきたり。。。
あたしも確かにそういう中途半端な人間ですけど(笑)
だからなおさら思うのだけど
「それにしても中途半端な宗教だよなw」ってね。
もしどんなにそれがいい教えだったとしても、
その教えを「聖典」や「聖なる書」にしてしまった時点で
その教えは息をしていないとあたしは考えています。
なぜならば現在の世界状況を見ても明らかなように
純粋な信者とそれの政権を握った人たち(幹部など)の間では
かなりの温度差があるのではないのでしょうか。
その時点で、どんなにいい教えもその機能を果たしていないのだと思ってしまうのですよね。
苦しいから、悲しいからこそ生きているって感じるんですよ。
苦しみや悲しみを知らない人には喜びや楽しさはわからないって思います。
時に絶望を味わったとしても、
だからこそ喜びを味わえるというのは
病気をしてみて初めて健康のありがたみがわかるのと同じだと思うのです。
初めて健康の大切さとか感謝の気持ちをいっそう強く実感できるのです。
そして、あらゆる宗教の教えというものは
愛について説かれていたりしますが
愛なんて誰に教わるものでなく
(心理学的にいえば母親から教わるわけなのですが)
幸せの定義だなんて誰にきめられたものでもなく
自分の中の経験と智恵から得られるものでもあると思うんです。
誰かとの共有体験じゃないのか!と思うだろうケド
誰か、の本当の気持ちはその「誰か」しか知りえません。
自分という意識が感じる誰か、でしかないと思うのです。
遠まわしに「愛なんて結局幻想よね〜w」
っていってるように聴こえますかw
いや、愛は自分の中に誰にでも備わっていて(いわゆるスーパーエゴみたいなもの)
それをさまざまな経験をもって感じたこと(いわゆるエゴ)
を栄養にしながら育てていくものじゃないかってことをいいたいわけです。
神の存在についての是非やスピリチュアルの世界でよくいわれている「天使の存在」もだけど
人間固有がそれぞれもちあわせるアーキタイプとか元型っていわれる存在だって思うのですよね。
まぁ色気も味気も夢もない表現ですがw
あたしは誰かに与えられた定義より
自分を見つめて、自分なりの経験や智恵をもって
一生かかって愛とか幸せとか豊かさを
その時々にカスタマイズしながら作りあげて生きたいって思います。
愛も幸せも豊かさも真理も、
生きている人の数だけあるものだって個人的にとても思うんだよね。
あたしにとってスピリチュアルもヒーリングも、
そういうものを作り上げるためのツールでしかないのです。
豊かな人生を送るための手段であって目的ではないのです。
あたしはそのツールとして選んだのがたまたまスピリチュアルやヒーリングであったってだけであって
何を用いてその人が幸せになるかというのは
個性とか性質とか、その人それぞれだって思います。
そんなふうにスピリチュアルと宗教というのは極めて似た部分(コトバ)を持つのは確かなんだけど
少し興味を持ってスピリチュアルを調べていけばそれらはまったく違うことがわかるはずなのだよね。
しかし某テレビ番組などの影響などもあって
魂とかオーラとかカルマとか、
そういうコトバだけが走ってしまっている気がしてならない。
あたしはそれにすごく危険性を以前から感じている
(よってその番組は見たことが一度しかない)
おそらくはヒーリングとスピリチュアルの違いすらわからない人も多いのではないだろうか。
今、霊感占いといっては宗教にもっていく、いわゆる霊感商法が去年から多発しているそうだ。
たしかにこれは自己責任とはいえ、マスコミが魂だ、オーラだカルマだと煽った功罪は大きい。
しかし、それ以上に何かにすがりたいがために
自分の全てをそういう方面(スピリチュアル)にもっていくことの危うさをも秘めていると思うのだ。
なぜそのような番組がはやるかといえば、
やはり誰にも相談できず、もしくは相談しても解決できず
悩んで苦しむ人やストレスを抱え込んでいる人が実に多いからだと思うのだ。
スピリチュアルにハマりすぎるのもグラウディング、
要するに地に足をつけられない状態っていう、それもまたある意味危険なのだけど。
(だって「現実界」に生きているわけだからね)
現実、現世に生きている以上、
それは日常生活を伴うものだし、
息抜きとしてのスピリチュアルやヒーリングならばいいのだけど、
実際問題生きていればムカつく、ウザいことだってたくさんあるし
逃げたいくらいに悲しいことや苦しいこともたくさんある。
そこをどう生きていくか、乗り越えていくか、というのが
まさに智恵であったりするのだと思うのですが
そういう状況に直面したとき、
自分がどう受け止めて、どのように自分の心とうまくつきあって
状況を脱しどうやってよりよく生きていくか、
そういうのはやはり
「経験や知識をベースにするもの」
ってあたしは思うんだ。
失敗をするからこそ、苦い思いを幾度となく経験して
次回はこうならないように、
じゃ、次のプロセスではどうすべきなのか考えよう、
...とよくしていくことを考えるわけだ。
要するに失敗を繰り返さない限り成功は決してありえないわけで
なんだかどこかの成功哲学の本みたいな偉そうなことをいってますが(笑)
逆に言えばあたしのMy哲学からいえば人生に成功っていうのはないんだよ。
以前も「勝ち組」「負け組」ってコトバ(競争社会)がイヤだと書きました。
だって成長のペースっていうのは人それぞれだから
勝ち負けを早くつけようとするのはどう考えてもおかしいと思うんだ。
勝ち組と世間からいわれてた人が必ずしも
「内なる幸せや豊かさ」(←これもスピリチュアルの世界でよく使われるw)を感じているとは限らないだろう。
「成功したから自分は勝ち」と思ったら
その人の成長はそこでもうおしまいだと思うのだ。
あたしも大学に受かったとたん勉強手抜きしまくったもん(爆)
今になってもっとマジメにしてればこんなアホにならなかったって思っていますよ(苦笑)
要するに、ここまではやってこれたけど自分の成功はまだまだ先だって思って自分を追いかけていく人こそ
真の意味で豊かであり幸福なんだと思うのだけど、
どうだろう。
要するに日々精進すべきなんですよ。
何よりもそういう向上心が生きていくうえで、
生きがいっていう意味でもっとも大切なんだって思います。
それは介護をやっている今現在祖母をみていてすごく実感しています。
介護に携わるうちに人生の生きがいというものについてすごく考える機会が増えました。
失敗があるからこそ成功を目指して向上しようとできるのだよね。
ゆえに智慧というのはこれまで自分が生きてきた証のデータベースなんだろうなと思うようになりました。
今スピリチュアルが確かにはやっています。
数年前までヒーリングブームで「癒されること」に重きをおいていたのが
誰かを「癒したい」人というのも増えてきた気がします。
マクロビオティックがはやったりレイキをやる人も少しずつ増えてきたり
日本は日本に戻ろうとしてるのかなって最近よく思います。
いわば免疫力みたいなものですね。
そしてそのスピリチュアルの延長という感覚なのか
古神道も注目されはじめたりしています。
中でも注目を集めているのは岡本天明氏の自動書記によるといわれている
日月神示(ひつきしんじ)。
たとえばマナーがなっていなかったり、
人に迷惑をかけていることすらわからずにいるという
「感覚が鈍ってる人」が多すぎるよね。
自分勝手な人が多いとはいうけど、
あたしからいわせたら個人主義と利己主義を履き違えている人が目に余るほどいる気がします。
日本が美徳としていたものは、そもそもは礼節だったのではないかと思うの。
スピリチュアルがはやっているのは確かにストレス社会であることはいえるのだけど
それよりももっと「今を生きていくための救い」を人々が求め始めているのではないだろうか。
あふれかえった物質の世界に疲れ果てた結果、
流せずにいる涙を精神世界に求めているのかもしれない。
そんなわけで日月神示云々や宗教抜きとかでも
もっと日本はあるべき日本の姿に戻るべきなんだって思います。
いや、今話題の「美しい国日本」とかいってる人にはまずムリかと思われますがw
一人一人の思いやりと感謝とが大切ですよね。
以下「日月神示」より抜粋しました。
友人に教えてもらったサイトにあったのですが
もし興味があれば長いですが読んでみるのもいいと思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/161030.htm
目の前のおかげではなく永遠の立場から良くなるおかげがマコトの
おかげ。
天国を動かす力は地獄であり、光明を動かす力は暗黒である。
地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。
因が果にうつり、呼が吸となりゆく道理に於いて歓喜は更に歓喜を
生ず。
その一方が反抗すれはするだけ他方が活動し。また強力に制しよう
とする。
この道は因縁なくては判らん難しい道であれど、この道貫かねば世
界は一平にならんのぢゃ。
縁ある人は勇んで行けるのぢゃ。
一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ。
元の神代に返すというのはたとえでないぞ。
穴の中に住まなならんことも出来るぞ、生の物食うて暮らさななら
んし臣民取り違いばかりしているぞ。
何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの欲ばかり言っていると
大変が出来るぞ。
官は潰され御分皆、火にかけられ灰となる。
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