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スピリチュアルとか宗教とか
最近精神的霊的な内容ばかり書いていますね(笑)
今回もそういう内容がちょっとだけでてきます。
以前スピリチュアルと宗教の共通点
こんなことを書きました。
<スピリチュアルがはやっているのは確かにストレス社会であることはいえるのだけど
それよりももっと「今を生きていくための救い」を人々が求め始めているのではないだろうか。
あふれかえった物質の世界に疲れ果てた結果、
流せずにいる涙を精神世界に求めているのかもしれない。>

マナーやモラルのない時代、とスピリチュアルも
本質的に実は関係すると思うし
食育とか、核家族化とかも以前書きましたが
そういうすべてが、
あたしの心の底辺ではみんなつながっているのだけど
説明がなんかうまくできなくて歯がゆいです...
表現するのって難しいですね(笑)
今回もうまく表現できないかもしれないけど、察してください(笑)

今は「物質の時代」だからこそ「精神的な何か」を求めるのは
むしろ人間の本能的な防御反応のような気がしてならないんです。
さきほどの一文で
<「今を生きていくための救い」を人々が求め始めているのではないだろうか。>
としましたが、もっといってしまえば「信仰」を求めている気がします。
「生きるために信じられる何か」
を探しているとでもいうのでしょうか。
信仰というよりか「信じられる何か」を求めてるかんじですね。
以前のブログにもよく書いていたのですが
人間は「不確かな存在」だからこそ何か信じることを求めるのだって思うのですよ。
つきつめれば
「何かを信じることで安心感を得て生きる」
とでもいうのかな。
人間は不確かだからこそ、信じることを通じて、
「自分が今、ここに、存在している」
という、確信であり安心感を得たいのだって思うんですね。
潜在的にあるであろう「生きててもいいんだよね?」っていうことへの答えみたいなものだって思うのです。
余談ですが心理学的なことをいえば母親の胎内にいるときに安心感を得ますが
胎内から世の中に出るとその安心感はなくなるわけですから
不安になって赤ちゃんは泣く、ともいわれています。
だから「生きてていいんだ」という気持ちは
ネグレクト(育児放棄)を含む虐待などによりその安心が得られないため
虐待で心に傷を負うと「自分」という存在はますます不確かになると思います。


ヒーリングは「心」を癒します。
スピリチュアルの世界は「魂」を癒します。
ヒーリングとスピリチュアルの大きな違いは
MindとSpiritの違い、だってあたしは思うんです。
というか今のスピリチュアルの場合は特に、
心も魂も、というかんじかな。
生きていくには、心とカラダのバランスだけでない、
心と魂とカラダのバランスが大切なんです。

今は信じられるものがない時代です。
食の安全にしても然り、年金問題とかは今後生きていくためのお金だものね。
医療事故にしても多いからこそセカンドオピニオンを求める人が多く出てきたわけだし、
何かの宣伝じゃないけど「安心はタダでない」ということが身にしみて感じる人が増えてきたわけです。
そっちの話をつきつめてしていくと国債の問題にまでなってしまうから今回はやめておきます(笑)
だけど国が無駄な出費を繰り返す体質のため
赤字を背負い込んだことは国を破滅に追いやることと同じだって思います。
予算をたてる時点で官と民には根本的な隔たりがあるわけです。
それは今でも同じこと。
官の体質が変わらない限り結局は何も変えられません。
夕張のように市が財政破綻するだなんて
10年前は考えたでしょうか?
国の「集団的無責任」と「利己主義の時代」というのは
あたしには、ほぼイコールのような気がしてなりません。
...政治と経済と哲学(と地震w)の話はつきませんね(笑;)

要するに信じられるものが人間だけでなく社会を見渡してみても
ほとんどなくなってきてしまったといいたいわけです。
物質的なもの、目で見えるものが(食にしてもお金にしても)
信じられなくなった時代になってきたため
カタチあるものへの信仰が薄らいできたのかもしれません。
本当に大切なものが何なのか知りたくなってきた、
いや、むしろ、情報もモノもあふれすぎたため
大切なものがわからなくて逆に不安な人が増えているのかなって思います。
それは資本主義という「物質世界」の副産物のような気がしてなりません。
そしてまた、逆に言えば、ある程度生活に苦労していないからこそ余計、
何かをさまよって求めているのだろうって思います。

先日テレビでブータンの難民キャンプについて放映されていました。
「とりあえず食べていけるし住むところもある、
だけど何かが足りない」
彼らの場合は国の場所的に宗教問題があります。
インドと中国という大国に挟まれた国に生まれた人たちの苦悩は
あたしたち日本人にはわかろうとしても難しい部分はたくさんあります。
一部のヒンズー教徒は差別され、チベット仏教がメインの国というわけです。
日本は無宗教の人間が多いですよね。
そしてまたあたしも特定の宗教を持ちません。
もちろん宗教以外にも信じること、もの、対象はいろいろあります。
さきほどいったように「何かの対象を信じる」ということで自分の中に安心感が生まれます。
この典型が宗教なのでしょう。
ブータンの例ではこのように「難民問題」や「宗教問題」などの苦悩があります。
こういう問題をかかえる国に生まれてしまったのは
ある意味「運命」というよりむしろ「宿命」ともとれるのかもしれません。

「苦悩」があるからこそ宗教が存在するのかもしれません。
しかし苦悩を救うためであるはずの宗教が逆に苦悩の原因になっているという矛盾。
あたしが特定の宗教をもたない理由はそういうところ(宗派の対立などの幹部間の利権問題)にあるのですけどね。
物質的には豊かな日本という国に生まれ育つと宗教的苦悩を知る由がないのでしょう。
しかし物質的に豊かでも精神的にはどれだけ豊かなのだろう、
そういうギモンを持つ人が多くなったのは
いわゆるベタな表現をすれば「日本の安全神話崩壊」といったところからきたものだろうと思います。

そんなこんながスピリチュアルブームのバックボーンだって個人的には思うのですが、
だけどなんでここまでスピリチュアルがはやるのでしょう?
これがたとえば10年前だったら、オ○ムの事件があったりして
胡散臭がられたでしょう。
少なくともあたしがヒーリングを始めて
スピリチュアルの世界に足を踏み入れた2002年の時点では
胡散臭いというふうな見方をされていましたよ?
マスコミの影響って本当大きいんだって思いましたね。
スピリチュアルに縁がないだろうっていう人が
平気で「魂」とか「オーラ」って言葉を使っているのを見聞きすると
ぶっちゃけちょっとゾッとしたりします(笑)
たぶんこの人何もわかってないんだろうな〜と思いつつもね。
というか心や魂という目に見えないものを扱う世界なので
あたしもわかったつもりになっているだけなのかもしれませんけどね。
だからこそ日々勉強、です。

たとえば親が生まれてきた子供を殺してしまったり
子供が親を「怒られた」という理由で殺してしまったり
これは親子関係の希薄さを物語っています。
親子関係の希薄さは人間関係の希薄さといえます。
先日も近所の商店街を歩いているとオバちゃんたちが大声で立ち話。
「○○さんのおばーちゃん、なくなってたみたいよ?」
「え、いつ?」
「一週間前、なんかもっと前に亡くなっていて、腐って融けていたんですって」
という会話が日常会話レベルに行われているのは異常なのか日常なのか。
近所づきあいも希薄になってきた現れの孤独死。
孤独死の問題は阪神淡路大震災の後の仮設住宅で問題になり、
今は東京の多摩センターでの団地での孤独死問題もありますが
(団地の上に一人で高齢者が住んでいるといろいろ問題があるわけです)
今後の高齢化社会で孤独死は深刻な社会問題にもっとなっていくだろうと思います。
何度もこちらで書いていますが、こういうとき核家族化の問題をすぐさま思うのですが
現在は核家族どころか「個人」いや「自己」の時代に突入したわけですよね。
「自己」の時代は、さきほども少し書いたけど集団的無責任ともとれるとあたしは思うのですよ。

子供の誘拐殺人事件にしても孤独死にしても地域ネットワークの薄さが指摘されていますよね。
地域で子供を守ろう、などという動きがある中
親子の関係すら希薄になっているのは
最初のうちは
「個の時代特有だな」と思ったりしていましたが
以前書いたけど
”個人主義といいつつ実際には
「利己主義な人間」
が、かなり前から増えてきている”
って思うんだ。

そして自分もお世話になっているから非常にいいにくいのだけど
「個別化」に拍車をかけているのがネットと携帯文化なんだって思う。
(ついでにいえばゲームもそうだと思います。)
ネットという「個」、携帯という「個」
仮想という意味で、ネットや携帯上で誰かと触れ合っていて
そのときは連帯感を得ていても、結局は
「自分の作り上げた世界の中の一人」
という位置づけなのじゃないかって思います。
掲示板なんかで「匿名」な人が目立つのも「責任逃れ」「無責任」の象徴ですよね。
国の集団的無責任は己の時代を作り出している、のか、
その逆なのか、
それは結局どっちでも同じなんですけど、
あたしの中ではどうもこの二つがリンクしてならないわけなんですよね。

誰かと向き合って「対話」をし、感じて、それをまたぶつける、
そういうことが今はなかなかできにくくなってきました。
「異常気象」だと騒いでいても
それは今異常でなくなってきている。
日常になりつつある「異常」。
自然のことは結局、一人一人が根気よく環境を守らなければ地球全体を守れないわけですよね(つまり企業の取り組みが必要ですよね)
親子関係のほうは広くないけど根深い問題だったりもします。

人間関係は心の問題なわけなので
自分の心を変えていけばいつかは必ずわかる日がくる、と思うんですよ。
いや、そう思いたいです(笑)

でもそこで注意すべきなのが
あくまでも、変えるのは「自分の心」であるということです。
決して誰かを変えようとしてはいけない。
要するに誰かをコントロールしたり、支配しようとすると
その報いは必ず自分にいつか返ってくるものです。

誰かを支配したりとか、コントロールしたりとか、
そういうことをする前に
自分の心を変えていくことのほうが
遠回りだけど、人間として本質的に大切だって思うの。
他者をコントロールや支配するという場合には
しっかり自分の心をコントロールできる人がやらないと
舵がとれなくなってしまうって思います。
実際にはそれすら理想論でしかないのかなという気がしてなりませんが。

誰も信じられなくなったような悲しい時代。
モノが信じられなくなった物質の時代。
何かひとつでも、と「信じられること」を求めている気がしてなりません。
もしかしたらこんなこと書いているあたしが一番そうなのだろうなとも思います。

「信仰」「信じること」ってさ、
結局は「自分の心の居場所」なんだよね。
自分の居場所って、自分の心の中に、本当は誰でもあるもの。
「自分の中心」に心の居場所をしっかり作れるような人間になりたいです。

カントとよく比較されるフィヒテのコトバに
「真の永続的恋愛は、尊敬というものがなければ成立しない」
という言葉があります。
これは結婚式のスピーチとかでよく話されるようですが
あたしはこれは恋愛や結婚に限ったコトバだとは思っていません。
親子関係も、親を尊敬する、子を尊重するっていう
そういう関係性が崩れてしまうと「成立」しにくいのかなって
最近のニュースを見てはよく思うんです。

「己(「個」ではなく利己主義の「己」)の時代」」
とあたしがいうのは
相手を尊重する、敬うという基本的姿勢の希薄さだって思うのです。
先日ちょっと書いた「礼節」とも関係してきます。
敬うのは人間だけじゃなく、自然界とか、
目に見えるものでなくて全てのものですよ。
大きな意味で「感謝」ともとれますね。
感謝の気持ちをわからない人に命の尊さなんてわかるはずもないでしょう。
感謝や尊敬は確かに目に見えないものだけど
目に見えないものの中にこそ大切なことって実は多いのだって思うし、
目に見えるものだけが全てではないのです。

どうやらまたえらそうなこと書きすぎました、エヘ(笑)
だけどまた書いていくって思いますww
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