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先日実家の近くの不二家があった場所をたまたま通りかかった。
もともと高架下にあったのもあって人気は少なかったけど
やはり、ともいうべきか、とうとうクローズしてしまったようだ。
もしかしたら赤字続きだったとして、
よく思えば「いいきっかけだったのかもしれない」ともとれるけどね。
こうやって一箇所、どこかで「悪事」を働くとひょんなことからそれは大きなものとなってある日突然現れるから怖い。
あるあるのこともそうだったよね。
どこまでが演出で、どこまでがやらせ、か。
これはマスコミの倫理観を問うた問題へと発展していったけど
TBSの問題にしてもそうだけど
次から次へと出てくるのは
ユーザーがこの問題に過敏になっているから、というだけではなかろう。
前回、憎しみは憎しみを呼ぶ、と書いたわけだけど
負は負を呼ぶのだ。
なにかの甘い、誘い水。
本当は「負」にヴェールという名前のオブラートをかけただけのものに手を染めるという
「誘惑」
たしかに人間にはさまざまな欲があるし
それはしごく当然ではあるのだけど
憎しみは憎しみを呼ぶ。
長崎市長殺害の犯人というのは以前の恐喝などでもわかるけど
お金という自分の欲のために、ということから
相当前から自らを見失っているわけであって
確かに欲というのは怖いものであるわけだね。
金は人を変えてしまうのも事実だ。
たしかにお金そのものは悪いものではないけど
それについてくる欲がやっかいなものなのだ。
今のスピリチュアルブームでお金をほしがることをやけに正当化しているのが
なんとなく気になって仕方ないのだけど、
あたしにはそちらの思想はどうやら関係なさそうだ。
普通は欲には理性をもってして自らを律するのだけど
それもまたまた難しいものだ。
たとえば甘いもの。
砂糖には依存物質が含まれているので
甘いものが好きな人には
砂糖を含むお菓子とかをこれまで我慢してても
ちょっとだけ...と食べたらもう最後!
自制心がききません(笑
そして鬱も鬱を呼ぶ。
これがいわゆる鬱連鎖だ。
心が健常な人でも鬱ウツな状態の人と接すると
なんとなぁ〜く...な感じになる。
ウツの人間には励ましは禁句。
がんばれだなんていえないわけだ。
そういうとき、どうやって接するべきなのか、とか
なれない人には難しいし、
また、変に相手に期待されてしまうことも、
とくに相手がボーダーの場合なんかは大変だ。
あたしもかつてウツがひどかったし、ボーダーラインだったから
余計に接することの難しさが当事者としてわかる。
考えてみれば
笑顔の人のところには
いつも楽しそうでにぎやかな人のところには
悪いものも吹き飛ばすくらいのエネルギーや強さを感じる。
気づいてみればあたしの身の回りには
そういう「Happy」オーラを身にまとった人が多いかもしれないと思った。
あたしはそういう彼らのオーラをもらっている。
オーラってさ、感情、メンタルを越えた場所、
魂レベルの問題だけど
ちょっとしたことでバランスって崩れてしまうものだから。
人ごみの中にいるとカラダや感情は普通なはずなのに、
なんか疲れた、なんてときは
あんまつかいたくないことばだけど
まさにオーラが疲れている時なのよ。
逆もいえるとあたしは思っていて
楽しかったり、なぜかこの人といると元気が出るって人、いない?
そんなときはその人からいいオーラをもらってる時だよね。
アストラル体やエーテル体の話までは今はしないで
わかりやすくオーラの話でとどめておきます。
そんなわけで、笑う門には福来るとは昔の人がいったけど
本当に言い得て妙だなって思う。
憎しみなどの負の連鎖を断ち切るのはひとつ、
勇気、だよね。
なんの勇気かといえば
赦す勇気。
赦して、受け入れること、
だなんてキリスト教っぽいかもしれないかな。
マザーテレサの言葉だったか
「赦しは最大の復讐」
という言葉があったよね。
ひとつのguilty(罪)を問うとき
not guiltyは必ずしもinnocent、無罪ではないわけだ。
アメリカで32人も銃殺した韓国人の話をきいたとき
アングリ・マーラの話をまず最初に思い出した。
善良なる人々を次々に殺しては、
彼らの指をとって
それを首飾りとしていたというブッダの話。
人は救いを求め、
癒しを求め、
赦しを請う生き物なのだろうか。
生まれてきたときから誰かしらに迷惑をかけてきてるわけだし
人はひとりでは決して生きられない。
キリスト教では
人は生まれながらにして罪を背負っているというわけか。
この世の中にはさまざまな宗教があるけど
その多くが赦しや、慈悲、無条件の愛、感謝をテーマにしている。
それだけ「赦す」ことというのは
人間にとっての
「悲しみ」
「苦しみ」
「葛藤」
などから解放される
永遠のテーマなのかもしれない。
今口にしている食べ物も全ての命の根源になっているのだから
やはり健康に感謝は日々しないといけないよね。
叔父や祖父の法事のときなどで
般若心経の紙が渡されて
それを一緒に唱えるわけだけど
般若心経の言葉の中に
「色即是空」
って言葉がある。
この世の全ては空だとする説、しない説はあるが、
あるがままを受け入れ、
一切執着のない空の世界から人々はやってきて
そこへ再び戻りゆく。
何もないところからやってきて、
悲しみだけでない、喜びも含めて
いろいろな「現実」体験をし、やがて帰衣する。
だけどそういったことを経験できるということは
まさにキセキであって
このキセキに、生まれてきたことに感謝をしないといけないんだよね。
人を恨むことは辛い。
人を赦すときっと、少しずつラクになれるはず。
悲しんでいきていくのは辛い。
だけどその分、強く、やさしくなれるはず。
生まれてきたことが、奇跡。
生きている事が、奇跡。
出会えた事が、奇跡。
健康で元気でいれることが、奇跡。
悲しんでいるのも、
喜びを知るためのもの。
喜びもまた、奇跡。
だから生を受けてきた事に感謝しないといけないんだね。
もともと高架下にあったのもあって人気は少なかったけど
やはり、ともいうべきか、とうとうクローズしてしまったようだ。
もしかしたら赤字続きだったとして、
よく思えば「いいきっかけだったのかもしれない」ともとれるけどね。
こうやって一箇所、どこかで「悪事」を働くとひょんなことからそれは大きなものとなってある日突然現れるから怖い。
あるあるのこともそうだったよね。
どこまでが演出で、どこまでがやらせ、か。
これはマスコミの倫理観を問うた問題へと発展していったけど
TBSの問題にしてもそうだけど
次から次へと出てくるのは
ユーザーがこの問題に過敏になっているから、というだけではなかろう。
前回、憎しみは憎しみを呼ぶ、と書いたわけだけど
負は負を呼ぶのだ。
なにかの甘い、誘い水。
本当は「負」にヴェールという名前のオブラートをかけただけのものに手を染めるという
「誘惑」
たしかに人間にはさまざまな欲があるし
それはしごく当然ではあるのだけど
憎しみは憎しみを呼ぶ。
長崎市長殺害の犯人というのは以前の恐喝などでもわかるけど
お金という自分の欲のために、ということから
相当前から自らを見失っているわけであって
確かに欲というのは怖いものであるわけだね。
金は人を変えてしまうのも事実だ。
たしかにお金そのものは悪いものではないけど
それについてくる欲がやっかいなものなのだ。
今のスピリチュアルブームでお金をほしがることをやけに正当化しているのが
なんとなく気になって仕方ないのだけど、
あたしにはそちらの思想はどうやら関係なさそうだ。
普通は欲には理性をもってして自らを律するのだけど
それもまたまた難しいものだ。
たとえば甘いもの。
砂糖には依存物質が含まれているので
甘いものが好きな人には
砂糖を含むお菓子とかをこれまで我慢してても
ちょっとだけ...と食べたらもう最後!
自制心がききません(笑
そして鬱も鬱を呼ぶ。
これがいわゆる鬱連鎖だ。
心が健常な人でも鬱ウツな状態の人と接すると
なんとなぁ〜く...な感じになる。
ウツの人間には励ましは禁句。
がんばれだなんていえないわけだ。
そういうとき、どうやって接するべきなのか、とか
なれない人には難しいし、
また、変に相手に期待されてしまうことも、
とくに相手がボーダーの場合なんかは大変だ。
あたしもかつてウツがひどかったし、ボーダーラインだったから
余計に接することの難しさが当事者としてわかる。
考えてみれば
笑顔の人のところには
いつも楽しそうでにぎやかな人のところには
悪いものも吹き飛ばすくらいのエネルギーや強さを感じる。
気づいてみればあたしの身の回りには
そういう「Happy」オーラを身にまとった人が多いかもしれないと思った。
あたしはそういう彼らのオーラをもらっている。
オーラってさ、感情、メンタルを越えた場所、
魂レベルの問題だけど
ちょっとしたことでバランスって崩れてしまうものだから。
人ごみの中にいるとカラダや感情は普通なはずなのに、
なんか疲れた、なんてときは
あんまつかいたくないことばだけど
まさにオーラが疲れている時なのよ。
逆もいえるとあたしは思っていて
楽しかったり、なぜかこの人といると元気が出るって人、いない?
そんなときはその人からいいオーラをもらってる時だよね。
アストラル体やエーテル体の話までは今はしないで
わかりやすくオーラの話でとどめておきます。
そんなわけで、笑う門には福来るとは昔の人がいったけど
本当に言い得て妙だなって思う。
憎しみなどの負の連鎖を断ち切るのはひとつ、
勇気、だよね。
なんの勇気かといえば
赦す勇気。
赦して、受け入れること、
だなんてキリスト教っぽいかもしれないかな。
マザーテレサの言葉だったか
「赦しは最大の復讐」
という言葉があったよね。
ひとつのguilty(罪)を問うとき
not guiltyは必ずしもinnocent、無罪ではないわけだ。
アメリカで32人も銃殺した韓国人の話をきいたとき
アングリ・マーラの話をまず最初に思い出した。
善良なる人々を次々に殺しては、
彼らの指をとって
それを首飾りとしていたというブッダの話。
人は救いを求め、
癒しを求め、
赦しを請う生き物なのだろうか。
生まれてきたときから誰かしらに迷惑をかけてきてるわけだし
人はひとりでは決して生きられない。
キリスト教では
人は生まれながらにして罪を背負っているというわけか。
この世の中にはさまざまな宗教があるけど
その多くが赦しや、慈悲、無条件の愛、感謝をテーマにしている。
それだけ「赦す」ことというのは
人間にとっての
「悲しみ」
「苦しみ」
「葛藤」
などから解放される
永遠のテーマなのかもしれない。
今口にしている食べ物も全ての命の根源になっているのだから
やはり健康に感謝は日々しないといけないよね。
叔父や祖父の法事のときなどで
般若心経の紙が渡されて
それを一緒に唱えるわけだけど
般若心経の言葉の中に
「色即是空」
って言葉がある。
この世の全ては空だとする説、しない説はあるが、
あるがままを受け入れ、
一切執着のない空の世界から人々はやってきて
そこへ再び戻りゆく。
何もないところからやってきて、
悲しみだけでない、喜びも含めて
いろいろな「現実」体験をし、やがて帰衣する。
だけどそういったことを経験できるということは
まさにキセキであって
このキセキに、生まれてきたことに感謝をしないといけないんだよね。
人を恨むことは辛い。
人を赦すときっと、少しずつラクになれるはず。
悲しんでいきていくのは辛い。
だけどその分、強く、やさしくなれるはず。
生まれてきたことが、奇跡。
生きている事が、奇跡。
出会えた事が、奇跡。
健康で元気でいれることが、奇跡。
悲しんでいるのも、
喜びを知るためのもの。
喜びもまた、奇跡。
だから生を受けてきた事に感謝しないといけないんだね。
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