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今連日放送されているミャンマーの日本人ジャーナリスト殺害事件。
これについてミャンマー政権に対して思うことは多いのだけど
とりあえず今はおいといて
あたしお得意の?マスコミ責めをひとつ(笑)
戦場や紛争地域ジャーナリストのこういうなくなり方は非常に残念ではあるのだけど
まさに殉職というか英雄だなって感じる。
至近距離から打つというミャンマー軍事勢力の非人道的なやり方については
あくまでも別問題としてここは捉えてね。
ここまでジャーナリズムのあり方や倫理観についてうるさくいうのは
ちょっとでもマスコミにいた経験があるからなんだけどね。
以前やはり戦場ジャーナリストとしてバグダットで襲撃された
橋田さんとその甥の小川さんという方がいらしたのを覚えてるだろうか。
彼らはイラク戦争の被害者だ。
今回の事件であたしはまず当時のイラク情勢のことについて思い出した。
2004年。
あれから世界は何かひとつでもよく変わっただろうか。
日本の政治や福祉を見る限りではそれはまったくもって感じることはできない。
そして並行するように、現在もなお問われ続けるマスコミのモラルは
残念ながら彼らの死を無為にしている気がしてならない。
今回の長井さんはAPF通信の所属で
「日本のメディアの多くが足を踏み入れたがらない
世界各地の紛争地帯を専門に取材してきた」
「誰も行きたがらない場所でも、誰かが取材に行かねばならない」
と語っていたという。(APFの記事より)
このような方が亡くなったのは本当に残念なことだ。
現在の日本のメディアのレベルの低さを見るほどにそう強く感じる。
少なくとも張り込みなどで警察と癒着をもち、事件のスクープをもらう様な人(彼らも大変なのはわかるが)とは
申し訳ないけどクオリティがまったく違う。
たとえば「あるある」の捏造とか始め
いろんな捏造とエンターテイメントの境がつかないという点も今年はじめ問題視されましたね。
世間にモラルの低下を伝えているマスコミの、そもそもモラルの低下があるわけですね。
これを機会に少しでもメディアリテラシーについて考えた人は多いのではないでしょうか。
しかしこういったものは現実問題メディアやマスコミ界のマジョリティ(majority<大多数>)になっていて
彼らのようなジャーナリストはマイノリティ(もちろん弱者という意味で使ってるわけではなく少数派という意味)であるといえる。
それに正直いってマスコミの報酬額(というか給料)ってめちゃくちゃ低いんですよ。
これはあたしがこっちの仕事(ライター)をもうやめた!って原因のひとつでもあったし(笑。でも本当そうですw)
一人暮らしをするフリーの編集、ライターの友人も
かなり厳しいらしく、それはほかにバイトをやっているほどです。
フリーになると仕事は選べるけど生活が、特に軌道に乗るまではかなり厳しくなるという現状があります。
だから実際さまざまなストレスで病んでいる人、または病んでしまう人も結構います。
一見華やかな世界に魅せられて入りたがる人は多いのですが
実情はかなり厳しいです。
そのような中であえて仕事をするわけですから大変なのはわかるんだけど
もっとしっかりとした倫理をもってほしいってこの業界全体にに対して思います。
そして最近亡くなった戦場ジャーナリストといって思い出されるのが
漫画家のサイバラさんこと西原理恵子のダンナであった鴨志田穣氏。
彼が仕事のストレスによるアル中であることはサイバラさんのマンガなんかである程度知っていたけど(実はデフォルメだと思ってたw)
彼が腎臓がんでなくなったと友人から聞いたのは実は7月のことだった。
知らなくて大変お恥ずかしいです。。。
鴨志田氏、通称鴨チャンは、友人からきいたところによれば
「日本に本物のジャーナリストはいない」
といっていたらしいですね(詳しくは忘れた)
それをきいてある種の軽いショックを覚えたとともに
やはり同じことを思う人は多いだろうなとも思った。
それを踏まえても長井さんがこういった紛争地域でなくなったことは二重に悲しむべきことだと感じたわけです。
ひとつめは一日本人として悲しむべきことであること。
もうひとつはメディア業界がまた一人このような方を失ったという事実だ。
マスコミの人たちはこのような事実をどう捉えるのだろうか。
彼の死をムダにしないで欲しいなと切に願う。
以下関連記事
・「あるある」のはずが...www(2007/01/21)
・vol.18 ウソなら上手について★(2007/01/24)
・クリティカルシンキングのススメ(2007/06/21)
これについてミャンマー政権に対して思うことは多いのだけど
とりあえず今はおいといて
あたしお得意の?マスコミ責めをひとつ(笑)
戦場や紛争地域ジャーナリストのこういうなくなり方は非常に残念ではあるのだけど
まさに殉職というか英雄だなって感じる。
至近距離から打つというミャンマー軍事勢力の非人道的なやり方については
あくまでも別問題としてここは捉えてね。
ここまでジャーナリズムのあり方や倫理観についてうるさくいうのは
ちょっとでもマスコミにいた経験があるからなんだけどね。
以前やはり戦場ジャーナリストとしてバグダットで襲撃された
橋田さんとその甥の小川さんという方がいらしたのを覚えてるだろうか。
彼らはイラク戦争の被害者だ。
今回の事件であたしはまず当時のイラク情勢のことについて思い出した。
2004年。
あれから世界は何かひとつでもよく変わっただろうか。
日本の政治や福祉を見る限りではそれはまったくもって感じることはできない。
そして並行するように、現在もなお問われ続けるマスコミのモラルは
残念ながら彼らの死を無為にしている気がしてならない。
今回の長井さんはAPF通信の所属で
「日本のメディアの多くが足を踏み入れたがらない
世界各地の紛争地帯を専門に取材してきた」
「誰も行きたがらない場所でも、誰かが取材に行かねばならない」
と語っていたという。(APFの記事より)
このような方が亡くなったのは本当に残念なことだ。
現在の日本のメディアのレベルの低さを見るほどにそう強く感じる。
少なくとも張り込みなどで警察と癒着をもち、事件のスクープをもらう様な人(彼らも大変なのはわかるが)とは
申し訳ないけどクオリティがまったく違う。
たとえば「あるある」の捏造とか始め
いろんな捏造とエンターテイメントの境がつかないという点も今年はじめ問題視されましたね。
世間にモラルの低下を伝えているマスコミの、そもそもモラルの低下があるわけですね。
これを機会に少しでもメディアリテラシーについて考えた人は多いのではないでしょうか。
しかしこういったものは現実問題メディアやマスコミ界のマジョリティ(majority<大多数>)になっていて
彼らのようなジャーナリストはマイノリティ(もちろん弱者という意味で使ってるわけではなく少数派という意味)であるといえる。
それに正直いってマスコミの報酬額(というか給料)ってめちゃくちゃ低いんですよ。
これはあたしがこっちの仕事(ライター)をもうやめた!って原因のひとつでもあったし(笑。でも本当そうですw)
一人暮らしをするフリーの編集、ライターの友人も
かなり厳しいらしく、それはほかにバイトをやっているほどです。
フリーになると仕事は選べるけど生活が、特に軌道に乗るまではかなり厳しくなるという現状があります。
だから実際さまざまなストレスで病んでいる人、または病んでしまう人も結構います。
一見華やかな世界に魅せられて入りたがる人は多いのですが
実情はかなり厳しいです。
そのような中であえて仕事をするわけですから大変なのはわかるんだけど
もっとしっかりとした倫理をもってほしいってこの業界全体にに対して思います。
そして最近亡くなった戦場ジャーナリストといって思い出されるのが
漫画家のサイバラさんこと西原理恵子のダンナであった鴨志田穣氏。
彼が仕事のストレスによるアル中であることはサイバラさんのマンガなんかである程度知っていたけど(実はデフォルメだと思ってたw)
彼が腎臓がんでなくなったと友人から聞いたのは実は7月のことだった。
知らなくて大変お恥ずかしいです。。。
鴨志田氏、通称鴨チャンは、友人からきいたところによれば
「日本に本物のジャーナリストはいない」
といっていたらしいですね(詳しくは忘れた)
それをきいてある種の軽いショックを覚えたとともに
やはり同じことを思う人は多いだろうなとも思った。
それを踏まえても長井さんがこういった紛争地域でなくなったことは二重に悲しむべきことだと感じたわけです。
ひとつめは一日本人として悲しむべきことであること。
もうひとつはメディア業界がまた一人このような方を失ったという事実だ。
マスコミの人たちはこのような事実をどう捉えるのだろうか。
彼の死をムダにしないで欲しいなと切に願う。
以下関連記事
・「あるある」のはずが...www(2007/01/21)
・vol.18 ウソなら上手について★(2007/01/24)
・クリティカルシンキングのススメ(2007/06/21)
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またまたヒーリングシリーズです、グフ★(笑)
ここはあたしの日記というか自己主張の場?(笑)であって
ヒーリングサイトでもなければ
スピリチュアルサイトでもなく
メンヘルサイトでもないのに
なんでこういうことをしてるのかというのはワケがあるんですよねw
ヒーリングサイトはあたしも世話になっています。
だけどずっと心にひっかかっていたギモンがあり
そういう仕事に足を踏み入れつつある今でもなお心にひっかかっていることがあります。
スピリチュアルは別としてヒーリングに対する考え方が
おそらくは多くのヒーラーさんやらセラピストさんと
違うのかなというところにあります。
おそらく一番癒しが必要であろう人には
ヒーリングというものをする余裕すらないのではないかと思うんです。
心の余裕がない人もいれば、時間の余裕がない人、
体力的な余裕がない人、金銭的な余裕のない人...
さまざまだって思います。
あたしがヒーリングやスピリチュアルの世界に足を踏み入れて5年。
これまでいろんな人と関わってきましたが
ある気持ちが年々強くなるばかりです。
ヒーリングなどを受ける側は
心の余裕もなんだかんだで、ある程度はあり、
時間の余裕ももちろんあり、
体力的なことにだって恵まれていて
金銭的にも恵まれている人が多いって思うのです。
そのことにずっとずっとギモンを抱いています。
あたしは経験上本当に癒しが必要で心が苦しい状態のとき
ヒーリングどころではありませんでした。
去年〜今年の春にかけて介護が本当に大変で毎日辛くて仕方なかった。
正直ヒーリングも地震予知もすっかり忘れ去っていたくらいでした。
今あたしがヒーリングやら地震予知について書いているのは
あたしの心にも時間にも余裕がでてきた証拠であるわけだし
大変ありがたい状態なのです。
癒しを否定はしていません。
だって現にあたしもその恩恵をうけているんだから。
その癒し業界への本音については過去の記事一期一会に書いてありますが
本当に癒されることを必要としている人(おそらく癒されたいと思う余裕すらない人)に、
癒し、ヒーリングというものが伝わればどんなにいいのにっていう気持ちがすごく強くあるんです。
要するにヒーリング業界の現状は
ただでさえ豊かである人がさらに豊かさを求めているという点のような気がしてならないんです。
なぜならば心が辛くて切羽詰まった人は病院にいくことが多いからです。
病院に行けば薬が処方されます。
一瞬だけラクになれるかもしれません。
だけど薬が切れた状態になるとまた元通りになってしまいます。
一期一会でも書いたように
ヒーリングに縁のない友人が
「癒しフェアにくるような人たちってさ、幸せを必要以上に求めてるような印象があるな」
といっていたのと、あたしの考えとおそらく本質は一緒なはず。
この友人をあえてこういうものに誘ったのにはそんなわけがあったんですよ。
あたしもヒーリングやスピリチュアルの世界にどっぷりつかっていたら
ここまで心苦しい気持ちにならなかったと思う。
昨日政治とフラワーエッセンスの例とか書いたりしたけど
フラワーエッセンスの取り入れ方をわかりやすくしたかったというのがありました。
そういうヒーリングの世界の敷居をなくしたい気持ちが強いんですね。
本当に癒しが必要な人にこそ癒されて欲しい気持ちが強いんですよ。
フラワーエッセンスのようなアイテムならばメンタルクリニックに行く前にまず試してほしい。
それでなおかつ辛さが抜けなかったらの最後の手段にとっておいてっほしいんです。
確かに精神安定剤が必要な場合だってあるかもしれません。
だけどできれば薬がいらなくなるような状態になっていってほしいし
生きるのが辛い人には少しでも希望をもって今を生きて欲しいんです。
これまで鬱で10年苦しんだ経験をもつのでその闇の世界の辛さがとてもわかるからです。
少なくとも今交流のある友達であたしの状態が一番ひどかった時(9年前)を知る人はほとんどいません。
あたしの癒しやスピリチュアルの根本を支えている自分なりの思想は以前の記事
スピリチュアル・ブームとマインド・コントロールの関連性で書いたんですが
聖フランシス(フランチェスコ)の祈りが原点にあるんです。
今一度聖フランシスの祈り(BrothermSun,Sister,Moon)をここに書きますね。
主よ、私を平和の道具にして下さい
憎しみあるところに、愛を、
傷あるところに、許しを、
疑いあるところに、信頼を、
絶望あるところに、希望を、
闇あるところに、光を、
そして、悲しみあるところに、喜びを
もたらす者にさせて下さい
主よ、慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
愛されるよりは、愛することを
求める者にして下さい
与えることによってこそ、受け取ることができ、
許すことによってこそ、許され、
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれる
ことができるのですから
あたしはこれが本来の癒しだとずっとずっと思っているんです。
別のヒーリングに無縁の友人はこういうことを数年前話していました。
「今ってさ、ヒーラーがあまりにも増えているよね。
癒したいって人がとても多い気がする」
それもまたあたしが思っていたことと同じでした。
癒したい人や癒しをあまりにありがたがる図式って
ヒーリングの敷居を一部限定にしてしまってる気がするんだよね。
一部っていうのはさっきいった、
時間にもお金にも心にも余裕がある程度ある人のことね。
生活が大変な人、明日を生きるのがやっとな人、
今を生きるのにがんばっている人
あたしはそういう人にこそとってほしいって思ってるんだ。
たとえば最近日本は大きい災害が続いてしまっていて
落胆してる人、絶望的になってる人、がんばりたいけど気力がない人
そういう人にこそヒーリングのメソッドを試しに使って欲しいという気持ちがあります。
怪我をして、もしくはうちの祖母みたいに寝たきりになって
「このままベッドで一生を終えてしまうのかな」
と実際思っていたらしいのですが
そういう人にこそ気力をあげたい。
本来癒しの必要な場所ってそういうところだってあたしは強く思うんです。
ヒーリングサロンにいって癒されましたというのだけがヒーリングなのは違うと思うんです。
なんかそういうのって違うよ...そうずっとずっと今でも強く思っています。
お金をためてサロンを開こうと思ってた時期もあったけど
そんなギモンがとても強くなり中断してしまいました。
先週からうちの祖母は新たにリハビリを始めました。
というかあたしが申し込んだのですけどね。
あたしの中で祖母の介護計画というのがあって
こうなってほしいという目標と、現状をみつつ
無理なく段階を経て実際に動けるにはどうしたらいいのか
そんなことをいつも考えているのですが
ヘルパーさんの手を借りて7月からシャワーを自宅で浴びれるまでにやっとなり、
8月はお風呂に入れるようになってきたので
次の近い目標を中期的にたててその第一歩としてリハビリを取り入れました。
あたしは祖母のQUL(Quority of Life)をあげていきたいんです。
だけどリハビリは辛い。
高齢者は性格にもよるけどうちの祖母は新しいことが好きではない。
当然リハビリを始めることにすごく抵抗しました。
だけどこのままじゃいけない。
祖母にあたしがなんでリハビリをしてほしいかを伝えて
バッチフラワーを飲ませました。
ラーチは何か新しいことを始めたりするときに尻込みしちゃうようなタイプに勇気を与えてくれます。
昨日も紹介したけどホーンビームはヤル気がない状態の気持ちをアゲてくれます。
そういうものを前日祖母にあげると今日になって行く気になってくれていました。
だけどやっぱしドキドキするみたいなので
レスキューレメディを直前に飲ませていたところ
帰りに迎えに行ったら
「とてもいいところだよ。がんばれそうだよ。歩ける自信が少しはつきそうだよ」
といってくれました。
(半年前は祖母は寝返りすら打てませんでした)
そんなふうに本来癒しっていうのはセラピールームやサロンのような場所で
優雅な気分で施されるものだけとはあたしは思わないんです。
うちの祖母みたいにむしろサロンとは無縁で
癒しが必要な状態だけどそれに気づかない人のほうが多いと思うんだ。
ヒーリングに対してそんな考えをしてしまうあたしは
間違っているのかな。。。
もっと癒しを身近に取り入れてよりスムーズな社会になっていってほしいなって心から思っています。
ここはあたしの日記というか自己主張の場?(笑)であって
ヒーリングサイトでもなければ
スピリチュアルサイトでもなく
メンヘルサイトでもないのに
なんでこういうことをしてるのかというのはワケがあるんですよねw
ヒーリングサイトはあたしも世話になっています。
だけどずっと心にひっかかっていたギモンがあり
そういう仕事に足を踏み入れつつある今でもなお心にひっかかっていることがあります。
スピリチュアルは別としてヒーリングに対する考え方が
おそらくは多くのヒーラーさんやらセラピストさんと
違うのかなというところにあります。
おそらく一番癒しが必要であろう人には
ヒーリングというものをする余裕すらないのではないかと思うんです。
心の余裕がない人もいれば、時間の余裕がない人、
体力的な余裕がない人、金銭的な余裕のない人...
さまざまだって思います。
あたしがヒーリングやスピリチュアルの世界に足を踏み入れて5年。
これまでいろんな人と関わってきましたが
ある気持ちが年々強くなるばかりです。
ヒーリングなどを受ける側は
心の余裕もなんだかんだで、ある程度はあり、
時間の余裕ももちろんあり、
体力的なことにだって恵まれていて
金銭的にも恵まれている人が多いって思うのです。
そのことにずっとずっとギモンを抱いています。
あたしは経験上本当に癒しが必要で心が苦しい状態のとき
ヒーリングどころではありませんでした。
去年〜今年の春にかけて介護が本当に大変で毎日辛くて仕方なかった。
正直ヒーリングも地震予知もすっかり忘れ去っていたくらいでした。
今あたしがヒーリングやら地震予知について書いているのは
あたしの心にも時間にも余裕がでてきた証拠であるわけだし
大変ありがたい状態なのです。
癒しを否定はしていません。
だって現にあたしもその恩恵をうけているんだから。
その癒し業界への本音については過去の記事一期一会に書いてありますが
本当に癒されることを必要としている人(おそらく癒されたいと思う余裕すらない人)に、
癒し、ヒーリングというものが伝わればどんなにいいのにっていう気持ちがすごく強くあるんです。
要するにヒーリング業界の現状は
ただでさえ豊かである人がさらに豊かさを求めているという点のような気がしてならないんです。
なぜならば心が辛くて切羽詰まった人は病院にいくことが多いからです。
病院に行けば薬が処方されます。
一瞬だけラクになれるかもしれません。
だけど薬が切れた状態になるとまた元通りになってしまいます。
一期一会でも書いたように
ヒーリングに縁のない友人が
「癒しフェアにくるような人たちってさ、幸せを必要以上に求めてるような印象があるな」
といっていたのと、あたしの考えとおそらく本質は一緒なはず。
この友人をあえてこういうものに誘ったのにはそんなわけがあったんですよ。
あたしもヒーリングやスピリチュアルの世界にどっぷりつかっていたら
ここまで心苦しい気持ちにならなかったと思う。
昨日政治とフラワーエッセンスの例とか書いたりしたけど
フラワーエッセンスの取り入れ方をわかりやすくしたかったというのがありました。
そういうヒーリングの世界の敷居をなくしたい気持ちが強いんですね。
本当に癒しが必要な人にこそ癒されて欲しい気持ちが強いんですよ。
フラワーエッセンスのようなアイテムならばメンタルクリニックに行く前にまず試してほしい。
それでなおかつ辛さが抜けなかったらの最後の手段にとっておいてっほしいんです。
確かに精神安定剤が必要な場合だってあるかもしれません。
だけどできれば薬がいらなくなるような状態になっていってほしいし
生きるのが辛い人には少しでも希望をもって今を生きて欲しいんです。
これまで鬱で10年苦しんだ経験をもつのでその闇の世界の辛さがとてもわかるからです。
少なくとも今交流のある友達であたしの状態が一番ひどかった時(9年前)を知る人はほとんどいません。
あたしの癒しやスピリチュアルの根本を支えている自分なりの思想は以前の記事
スピリチュアル・ブームとマインド・コントロールの関連性で書いたんですが
聖フランシス(フランチェスコ)の祈りが原点にあるんです。
今一度聖フランシスの祈り(BrothermSun,Sister,Moon)をここに書きますね。
主よ、私を平和の道具にして下さい
憎しみあるところに、愛を、
傷あるところに、許しを、
疑いあるところに、信頼を、
絶望あるところに、希望を、
闇あるところに、光を、
そして、悲しみあるところに、喜びを
もたらす者にさせて下さい
主よ、慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
愛されるよりは、愛することを
求める者にして下さい
与えることによってこそ、受け取ることができ、
許すことによってこそ、許され、
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれる
ことができるのですから
あたしはこれが本来の癒しだとずっとずっと思っているんです。
別のヒーリングに無縁の友人はこういうことを数年前話していました。
「今ってさ、ヒーラーがあまりにも増えているよね。
癒したいって人がとても多い気がする」
それもまたあたしが思っていたことと同じでした。
癒したい人や癒しをあまりにありがたがる図式って
ヒーリングの敷居を一部限定にしてしまってる気がするんだよね。
一部っていうのはさっきいった、
時間にもお金にも心にも余裕がある程度ある人のことね。
生活が大変な人、明日を生きるのがやっとな人、
今を生きるのにがんばっている人
あたしはそういう人にこそとってほしいって思ってるんだ。
たとえば最近日本は大きい災害が続いてしまっていて
落胆してる人、絶望的になってる人、がんばりたいけど気力がない人
そういう人にこそヒーリングのメソッドを試しに使って欲しいという気持ちがあります。
怪我をして、もしくはうちの祖母みたいに寝たきりになって
「このままベッドで一生を終えてしまうのかな」
と実際思っていたらしいのですが
そういう人にこそ気力をあげたい。
本来癒しの必要な場所ってそういうところだってあたしは強く思うんです。
ヒーリングサロンにいって癒されましたというのだけがヒーリングなのは違うと思うんです。
なんかそういうのって違うよ...そうずっとずっと今でも強く思っています。
お金をためてサロンを開こうと思ってた時期もあったけど
そんなギモンがとても強くなり中断してしまいました。
先週からうちの祖母は新たにリハビリを始めました。
というかあたしが申し込んだのですけどね。
あたしの中で祖母の介護計画というのがあって
こうなってほしいという目標と、現状をみつつ
無理なく段階を経て実際に動けるにはどうしたらいいのか
そんなことをいつも考えているのですが
ヘルパーさんの手を借りて7月からシャワーを自宅で浴びれるまでにやっとなり、
8月はお風呂に入れるようになってきたので
次の近い目標を中期的にたててその第一歩としてリハビリを取り入れました。
あたしは祖母のQUL(Quority of Life)をあげていきたいんです。
だけどリハビリは辛い。
高齢者は性格にもよるけどうちの祖母は新しいことが好きではない。
当然リハビリを始めることにすごく抵抗しました。
だけどこのままじゃいけない。
祖母にあたしがなんでリハビリをしてほしいかを伝えて
バッチフラワーを飲ませました。
ラーチは何か新しいことを始めたりするときに尻込みしちゃうようなタイプに勇気を与えてくれます。
昨日も紹介したけどホーンビームはヤル気がない状態の気持ちをアゲてくれます。
そういうものを前日祖母にあげると今日になって行く気になってくれていました。
だけどやっぱしドキドキするみたいなので
レスキューレメディを直前に飲ませていたところ
帰りに迎えに行ったら
「とてもいいところだよ。がんばれそうだよ。歩ける自信が少しはつきそうだよ」
といってくれました。
(半年前は祖母は寝返りすら打てませんでした)
そんなふうに本来癒しっていうのはセラピールームやサロンのような場所で
優雅な気分で施されるものだけとはあたしは思わないんです。
うちの祖母みたいにむしろサロンとは無縁で
癒しが必要な状態だけどそれに気づかない人のほうが多いと思うんだ。
ヒーリングに対してそんな考えをしてしまうあたしは
間違っているのかな。。。
もっと癒しを身近に取り入れてよりスムーズな社会になっていってほしいなって心から思っています。
またまたヒーリングシリーズです、グフ★(笑)
ここはあたしの日記というか自己主張の場?(笑)であって
ヒーリングサイトでもなければ
スピリチュアルサイトでもなく
メンヘルサイトでもないのに
なんでこういうことをしてるのかというのはワケがあるんですよねw
ヒーリングサイトはあたしも世話になっています。
だけどずっと心にひっかかっていたギモンがあり
そういう仕事に足を踏み入れつつある今でもなお心にひっかかっていることがあります。
スピリチュアルは別としてヒーリングに対する考え方が
おそらくは多くのヒーラーさんやらセラピストさんと
違うのかなというところにあります。
おそらく一番癒しが必要であろう人には
ヒーリングというものをする余裕すらないのではないかと思うんです。
心の余裕がない人もいれば、時間の余裕がない人、
体力的な余裕がない人、金銭的な余裕のない人...
さまざまだって思います。
あたしがヒーリングやスピリチュアルの世界に足を踏み入れて5年。
これまでいろんな人と関わってきましたが
ある気持ちが年々強くなるばかりです。
ヒーリングなどを受ける側は
心の余裕もなんだかんだで、ある程度はあり、
時間の余裕ももちろんあり、
体力的なことにだって恵まれていて
金銭的にも恵まれている人が多いって思うのです。
そのことにずっとずっとギモンを抱いています。
あたしは経験上本当に癒しが必要で心が苦しい状態のとき
ヒーリングどころではありませんでした。
去年〜今年の春にかけて介護が本当に大変で毎日辛くて仕方なかった。
正直ヒーリングも地震予知もすっかり忘れ去っていたくらいでした。
今あたしがヒーリングやら地震予知について書いているのは
あたしの心にも時間にも余裕がでてきた証拠であるわけだし
大変ありがたい状態なのです。
癒しを否定はしていません。
だって現にあたしもその恩恵をうけているんだから。
その癒し業界への本音については過去の記事一期一会に書いてありますが
本当に癒されることを必要としている人(おそらく癒されたいと思う余裕すらない人)に、
癒し、ヒーリングというものが伝わればどんなにいいのにっていう気持ちがすごく強くあるんです。
要するにヒーリング業界の現状は
ただでさえ豊かである人がさらに豊かさを求めているという点のような気がしてならないんです。
なぜならば心が辛くて切羽詰まった人は病院にいくことが多いからです。
病院に行けば薬が処方されます。
一瞬だけラクになれるかもしれません。
だけど薬が切れた状態になるとまた元通りになってしまいます。
一期一会でも書いたように
ヒーリングに縁のない友人が
「癒しフェアにくるような人たちってさ、幸せを必要以上に求めてるような印象があるな」
といっていたのと、あたしの考えとおそらく本質は一緒なはず。
この友人をあえてこういうものに誘ったのにはそんなわけがあったんですよ。
あたしもヒーリングやスピリチュアルの世界にどっぷりつかっていたら
ここまで心苦しい気持ちにならなかったと思う。
昨日政治とフラワーエッセンスの例とか書いたりしたけど
フラワーエッセンスの取り入れ方をわかりやすくしたかったというのがありました。
そういうヒーリングの世界の敷居をなくしたい気持ちが強いんですね。
本当に癒しが必要な人にこそ癒されて欲しい気持ちが強いんですよ。
フラワーエッセンスのようなアイテムならばメンタルクリニックに行く前にまず試してほしい。
それでなおかつ辛さが抜けなかったらの最後の手段にとっておいてっほしいんです。
確かに精神安定剤が必要な場合だってあるかもしれません。
だけどできれば薬がいらなくなるような状態になっていってほしいし
生きるのが辛い人には少しでも希望をもって今を生きて欲しいんです。
これまで鬱で10年苦しんだ経験をもつのでその闇の世界の辛さがとてもわかるからです。
少なくとも今交流のある友達であたしの状態が一番ひどかった時(9年前)を知る人はほとんどいません。
あたしの癒しやスピリチュアルの根本を支えている自分なりの思想は以前の記事
スピリチュアル・ブームとマインド・コントロールの関連性で書いたんですが
聖フランシス(フランチェスコ)の祈りが原点にあるんです。
今一度聖フランシスの祈り(BrothermSun,Sister,Moon)をここに書きますね。
主よ、私を平和の道具にして下さい
憎しみあるところに、愛を、
傷あるところに、許しを、
疑いあるところに、信頼を、
絶望あるところに、希望を、
闇あるところに、光を、
そして、悲しみあるところに、喜びを
もたらす者にさせて下さい
主よ、慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
愛されるよりは、愛することを
求める者にして下さい
与えることによってこそ、受け取ることができ、
許すことによってこそ、許され、
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれる
ことができるのですから
あたしはこれが本来の癒しだとずっとずっと思っているんです。
別のヒーリングに無縁の友人はこういうことを数年前話していました。
「今ってさ、ヒーラーがあまりにも増えているよね。
癒したいって人がとても多い気がする」
それもまたあたしが思っていたことと同じでした。
癒したい人や癒しをあまりにありがたがる図式って
ヒーリングの敷居を一部限定にしてしまってる気がするんだよね。
一部っていうのはさっきいった、
時間にもお金にも心にも余裕がある程度ある人のことね。
生活が大変な人、明日を生きるのがやっとな人、
今を生きるのにがんばっている人
あたしはそういう人にこそとってほしいって思ってるんだ。
たとえば最近日本は大きい災害が続いてしまっていて
落胆してる人、絶望的になってる人、がんばりたいけど気力がない人
そういう人にこそヒーリングのメソッドを試しに使って欲しいという気持ちがあります。
怪我をして、もしくはうちの祖母みたいに寝たきりになって
「このままベッドで一生を終えてしまうのかな」
と実際思っていたらしいのですが
そういう人にこそ気力をあげたい。
本来癒しの必要な場所ってそういうところだってあたしは強く思うんです。
ヒーリングサロンにいって癒されましたというのだけがヒーリングなのは違うと思うんです。
なんかそういうのって違うよ...そうずっとずっと今でも強く思っています。
お金をためてサロンを開こうと思ってた時期もあったけど
そんなギモンがとても強くなり中断してしまいました。
先週からうちの祖母は新たにリハビリを始めました。
というかあたしが申し込んだのですけどね。
あたしの中で祖母の介護計画というのがあって
こうなってほしいという目標と、現状をみつつ
無理なく段階を経て実際に動けるにはどうしたらいいのか
そんなことをいつも考えているのですが
ヘルパーさんの手を借りて7月からシャワーを自宅で浴びれるまでにやっとなり、
8月はお風呂に入れるようになってきたので
次の近い目標を中期的にたててその第一歩としてリハビリを取り入れました。
あたしは祖母のQUL(Quority of Life)をあげていきたいんです。
だけどリハビリは辛い。
高齢者は性格にもよるけどうちの祖母は新しいことが好きではない。
当然リハビリを始めることにすごく抵抗しました。
だけどこのままじゃいけない。
祖母にあたしがなんでリハビリをしてほしいかを伝えて
バッチフラワーを飲ませました。
ラーチは何か新しいことを始めたりするときに尻込みしちゃうようなタイプに勇気を与えてくれます。
昨日も紹介したけどホーンビームはヤル気がない状態の気持ちをアゲてくれます。
そういうものを前日祖母にあげると今日になって行く気になってくれていました。
だけどやっぱしドキドキするみたいなので
レスキューレメディを直前に飲ませていたところ
帰りに迎えに行ったら
「とてもいいところだよ。がんばれそうだよ。歩ける自信が少しはつきそうだよ」
といってくれました。
(半年前は祖母は寝返りすら打てませんでした)
そんなふうに本来癒しっていうのはセラピールームやサロンのような場所で
優雅な気分で施されるものだけとはあたしは思わないんです。
うちの祖母みたいにむしろサロンとは無縁で
癒しが必要な状態だけどそれに気づかない人のほうが多いと思うんだ。
ヒーリングに対してそんな考えをしてしまうあたしは
間違っているのかな。。。
もっと癒しを身近に取り入れてよりスムーズな社会になっていってほしいなって心から思っています。
ここはあたしの日記というか自己主張の場?(笑)であって
ヒーリングサイトでもなければ
スピリチュアルサイトでもなく
メンヘルサイトでもないのに
なんでこういうことをしてるのかというのはワケがあるんですよねw
ヒーリングサイトはあたしも世話になっています。
だけどずっと心にひっかかっていたギモンがあり
そういう仕事に足を踏み入れつつある今でもなお心にひっかかっていることがあります。
スピリチュアルは別としてヒーリングに対する考え方が
おそらくは多くのヒーラーさんやらセラピストさんと
違うのかなというところにあります。
おそらく一番癒しが必要であろう人には
ヒーリングというものをする余裕すらないのではないかと思うんです。
心の余裕がない人もいれば、時間の余裕がない人、
体力的な余裕がない人、金銭的な余裕のない人...
さまざまだって思います。
あたしがヒーリングやスピリチュアルの世界に足を踏み入れて5年。
これまでいろんな人と関わってきましたが
ある気持ちが年々強くなるばかりです。
ヒーリングなどを受ける側は
心の余裕もなんだかんだで、ある程度はあり、
時間の余裕ももちろんあり、
体力的なことにだって恵まれていて
金銭的にも恵まれている人が多いって思うのです。
そのことにずっとずっとギモンを抱いています。
あたしは経験上本当に癒しが必要で心が苦しい状態のとき
ヒーリングどころではありませんでした。
去年〜今年の春にかけて介護が本当に大変で毎日辛くて仕方なかった。
正直ヒーリングも地震予知もすっかり忘れ去っていたくらいでした。
今あたしがヒーリングやら地震予知について書いているのは
あたしの心にも時間にも余裕がでてきた証拠であるわけだし
大変ありがたい状態なのです。
癒しを否定はしていません。
だって現にあたしもその恩恵をうけているんだから。
その癒し業界への本音については過去の記事一期一会に書いてありますが
本当に癒されることを必要としている人(おそらく癒されたいと思う余裕すらない人)に、
癒し、ヒーリングというものが伝わればどんなにいいのにっていう気持ちがすごく強くあるんです。
要するにヒーリング業界の現状は
ただでさえ豊かである人がさらに豊かさを求めているという点のような気がしてならないんです。
なぜならば心が辛くて切羽詰まった人は病院にいくことが多いからです。
病院に行けば薬が処方されます。
一瞬だけラクになれるかもしれません。
だけど薬が切れた状態になるとまた元通りになってしまいます。
一期一会でも書いたように
ヒーリングに縁のない友人が
「癒しフェアにくるような人たちってさ、幸せを必要以上に求めてるような印象があるな」
といっていたのと、あたしの考えとおそらく本質は一緒なはず。
この友人をあえてこういうものに誘ったのにはそんなわけがあったんですよ。
あたしもヒーリングやスピリチュアルの世界にどっぷりつかっていたら
ここまで心苦しい気持ちにならなかったと思う。
昨日政治とフラワーエッセンスの例とか書いたりしたけど
フラワーエッセンスの取り入れ方をわかりやすくしたかったというのがありました。
そういうヒーリングの世界の敷居をなくしたい気持ちが強いんですね。
本当に癒しが必要な人にこそ癒されて欲しい気持ちが強いんですよ。
フラワーエッセンスのようなアイテムならばメンタルクリニックに行く前にまず試してほしい。
それでなおかつ辛さが抜けなかったらの最後の手段にとっておいてっほしいんです。
確かに精神安定剤が必要な場合だってあるかもしれません。
だけどできれば薬がいらなくなるような状態になっていってほしいし
生きるのが辛い人には少しでも希望をもって今を生きて欲しいんです。
これまで鬱で10年苦しんだ経験をもつのでその闇の世界の辛さがとてもわかるからです。
少なくとも今交流のある友達であたしの状態が一番ひどかった時(9年前)を知る人はほとんどいません。
あたしの癒しやスピリチュアルの根本を支えている自分なりの思想は以前の記事
スピリチュアル・ブームとマインド・コントロールの関連性で書いたんですが
聖フランシス(フランチェスコ)の祈りが原点にあるんです。
今一度聖フランシスの祈り(BrothermSun,Sister,Moon)をここに書きますね。
主よ、私を平和の道具にして下さい
憎しみあるところに、愛を、
傷あるところに、許しを、
疑いあるところに、信頼を、
絶望あるところに、希望を、
闇あるところに、光を、
そして、悲しみあるところに、喜びを
もたらす者にさせて下さい
主よ、慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
愛されるよりは、愛することを
求める者にして下さい
与えることによってこそ、受け取ることができ、
許すことによってこそ、許され、
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれる
ことができるのですから
あたしはこれが本来の癒しだとずっとずっと思っているんです。
別のヒーリングに無縁の友人はこういうことを数年前話していました。
「今ってさ、ヒーラーがあまりにも増えているよね。
癒したいって人がとても多い気がする」
それもまたあたしが思っていたことと同じでした。
癒したい人や癒しをあまりにありがたがる図式って
ヒーリングの敷居を一部限定にしてしまってる気がするんだよね。
一部っていうのはさっきいった、
時間にもお金にも心にも余裕がある程度ある人のことね。
生活が大変な人、明日を生きるのがやっとな人、
今を生きるのにがんばっている人
あたしはそういう人にこそとってほしいって思ってるんだ。
たとえば最近日本は大きい災害が続いてしまっていて
落胆してる人、絶望的になってる人、がんばりたいけど気力がない人
そういう人にこそヒーリングのメソッドを試しに使って欲しいという気持ちがあります。
怪我をして、もしくはうちの祖母みたいに寝たきりになって
「このままベッドで一生を終えてしまうのかな」
と実際思っていたらしいのですが
そういう人にこそ気力をあげたい。
本来癒しの必要な場所ってそういうところだってあたしは強く思うんです。
ヒーリングサロンにいって癒されましたというのだけがヒーリングなのは違うと思うんです。
なんかそういうのって違うよ...そうずっとずっと今でも強く思っています。
お金をためてサロンを開こうと思ってた時期もあったけど
そんなギモンがとても強くなり中断してしまいました。
先週からうちの祖母は新たにリハビリを始めました。
というかあたしが申し込んだのですけどね。
あたしの中で祖母の介護計画というのがあって
こうなってほしいという目標と、現状をみつつ
無理なく段階を経て実際に動けるにはどうしたらいいのか
そんなことをいつも考えているのですが
ヘルパーさんの手を借りて7月からシャワーを自宅で浴びれるまでにやっとなり、
8月はお風呂に入れるようになってきたので
次の近い目標を中期的にたててその第一歩としてリハビリを取り入れました。
あたしは祖母のQUL(Quority of Life)をあげていきたいんです。
だけどリハビリは辛い。
高齢者は性格にもよるけどうちの祖母は新しいことが好きではない。
当然リハビリを始めることにすごく抵抗しました。
だけどこのままじゃいけない。
祖母にあたしがなんでリハビリをしてほしいかを伝えて
バッチフラワーを飲ませました。
ラーチは何か新しいことを始めたりするときに尻込みしちゃうようなタイプに勇気を与えてくれます。
昨日も紹介したけどホーンビームはヤル気がない状態の気持ちをアゲてくれます。
そういうものを前日祖母にあげると今日になって行く気になってくれていました。
だけどやっぱしドキドキするみたいなので
レスキューレメディを直前に飲ませていたところ
帰りに迎えに行ったら
「とてもいいところだよ。がんばれそうだよ。歩ける自信が少しはつきそうだよ」
といってくれました。
(半年前は祖母は寝返りすら打てませんでした)
そんなふうに本来癒しっていうのはセラピールームやサロンのような場所で
優雅な気分で施されるものだけとはあたしは思わないんです。
うちの祖母みたいにむしろサロンとは無縁で
癒しが必要な状態だけどそれに気づかない人のほうが多いと思うんだ。
ヒーリングに対してそんな考えをしてしまうあたしは
間違っているのかな。。。
もっと癒しを身近に取り入れてよりスムーズな社会になっていってほしいなって心から思っています。
★検索でいらした富山近辺の方がたへ。
魚津の件については一番最後を御覧ください(後日削除)
7月20日で祖母が転倒し、手術してから一年以上が過ぎた。
この1年、そして、今日という日もなんとか無事に終えられたことに感謝しています。
9月11日は同時多発テロがあった日ですが
祖母が転院した日でもありました。
そんな思いも込めて1年以上たちおちついてきたので
介護によって家族が変わったこととか
介護に対してのいろいろな思い、
介護を通して導かれたあたし独自の考え...
時々小出しにして(笑)書いていきたいと思います。
*
「フツウだ」と思っていることは本当はフツウじゃないってこと。
そんな単純なことにやっと気づいたのが去年7月のことだ。
あたしはあの日以来、普通ってもんがどんなに幸せなことなのか、よくわかった。
「普通でない日」というのはある日突然やってくるんだ。
昨日乙女座の新月について書いたけど
乙女座のテーマは健康とか秩序、だ。
病気にならなければ健康であることに感謝をなかなかしにくいものだ。
怪我をしたり事故にあってみてはじめて「健康」ってどんなにありがたいものかがわかるのだ。
今年はいのしし年でもある。
いのししの年は災害が多いといわれている。
現に今年はすでに2回も日本海を大きな被害地震が襲った。
12年前1995年は阪神淡路大震災がおきた。
台風シーズンになり先日の台風が環境ほか経済的損失をもたらした影響は濃い。
7月に新潟の震災の報道を見ていて
「水がどれだけありがたいのか初めてわかった」といっていた方がいらした。
いつも当たり前のようにあるもの、
当たり前のように接している大切な家族や友達
当たり前のようにしている趣味、
当たり前のように食べていたりとか、
当たり前のように安らいだ眠りにつくとか、
一見それは「当たり前」のように見えて「当たり前」ではないのだ。
「健康」も「日常」っていう状態も存在しうる全てのものはきっと
失ってみてはじめてそのありがたさがわかるのだろうし
逆に言えば失わなければなかなか感謝ってできないものなのかもしれない。
だけど、失ってからでは遅すぎる。
これまであたしが祖母と暮らしていた「当たり前」の日々。
こんな平穏な日常がある日当たり前、でなくなったら?
確かにこれは不幸なことだ。
祖母は一人では歩けないし、
あたしは祖母の介護をするために24時間ほぼ家にいることを余儀なくされている。
父親も実家に住んでいたのが週の半分は東京にいることになる...
一見それは祖母の事故で祖母だけがトラブルに巻き込まれて辛い思いをするかと思うけど
誰か一人のトラブルというのは時として家族をも巻き込む結果となる。
近所の方に道端であって挨拶をすると
「おばぁちゃんどう?」と聞かれる。
そして必ずいわれるのが
「あなたも若いのにね...いつか生きていればいいことあるわよ」
このセリフをかなり多くのヒトからこれまで言われてきた。
少なくとも10人以上。
それだけ介護=不幸という常識に世間ではなっているらしい。
だからあたしも悲劇の主人公ではないけど、これは不幸だと思ってきた。
確かに介護に対しそういう辛いばかりのイメージがつきまとっていたのは事実だ。
最初あたしが介護を引き受けなければならない状況のとき
わかってはいたけどそんな現実を受け入れたくない自分がいたのも事実だった。
責任の重さは今でも相当感じて祖母と接している。
しかしはたしてそこまで介護をする家族すべてが常に不幸なんだろうかとあたしは問う。
要介護の状態はもちろん精神的肉体的辛さを周りにもたらす。
それは本人だけでなく家族全員の辛さでもある。
だけどそれは本当に絶対的不幸なのか。
介護から学んだことは大きいし確実に成長させてくれた。
そして祖母と密に接しているわけで
誰かと密に接することの大切さも学んだ。
しかしこれは肉親だからこそこんな考えができるのだ。
介護の実際はお嫁さんがやってることのほうが日本でははるかに多いのだ。
それにまだ若いからこういう考えができるのかもしれないが...
というのも今介護をしている多くが老老介護、
要するに90歳の親を70歳の娘が介護したり
85歳の夫を83歳の妻が支えたり、
そういうケースが増えてきてるしこれからはさらに増えるだろう。
介護が原因で心中という血なまぐさいことが現実問題かなりあるし
今の政治のままではこれからもどんどん増えていくでしょう。
現在の福祉や高齢者切捨ての行政のあり方はかなり怒りを覚える由々しき事態だ。
「今後の生活を守られ保障されている政治屋」になど所詮わからないレベルだ。
国民目線の政治なんて当然成り立ちはしないだろう。
この介護を通して1年だけど学んだことは相当ある。
介護を通してさまざまなものの見方がガラリと変わっていった。
逆に言えば去年の相続、介護を通さなければここまで成長できなかったと思うことがかなり多い。
あたしにとって介護は必要な人生のワークだったのだ。
そして思ったのは祖母が要介護という状態になることで
家族の問題の膿を出したような結果となったと気づかされた。
そもそも放置していた問題点は大きな衝撃がない限り現状維持のままでなかなか前にコマが進めないものだ。
今回のようなトラブルがあったからこそ解決しようと真剣に考えるわけだし、
問題に対して本気になって取り組めたのだ。
バラバラになったひとつのパズル。
最初の絵はどんなだったっけ?
などと想像しながら手探りでピースをはめていく。
そんな作業になんか似ている。
たしかに祖母の不注意で事故にあったのだけど
介護はあたしや家族にとって、まさに人生のワークとなっている。
いや、前向きとかそんなじゃなくてね、
あたしの好きな"Go with the Flow"って言葉を考えるほどに
今の人生は、大きな宇宙の流れのうちの
小さな、だけど気高い
ひとつの魂の旅の途中なんだってふうに思う。
運命の役割や魂の目的のようなものを別に探すでもなく
流れに乗って生きていけば、
きっとそういうふうに仕組まれているんだろうから
まずは本当の自分の声をしっかりきいてあげて、自分の魂を大切にしてあげて
そして目の前のことに真剣に取り組むことが大切なんだろうね。
自分の肉体を離れるまでのわずかな間は
宇宙の流れみたいな運命のリズムのようなものを
楽しむくらいの感覚がいいんだろうね。
そんなふうに生きられればきっと
目の前に何が起こっても動揺せず
魂からのメッセージを聞くことができる。
これまでは「この世界はとっても生きにくい」とばかり思っていたけど
生きにくい世界はあたし自身が作り出していたものなのだって思うようになった。
宇宙のリズムはそんなことを教えてくれてる。
すべての真実なんてもんは
きっと極めてシンプルにできているはずなんだよね。
運命に逆らわず、流されず、
だけど意思を持って流れに乗って生きてゆきたい。
そんなことをれいあさんは今となっては思うのでした。
スピリチュアルですかね?(笑)
そうね、あたしにとってのスピリチュアルってこんな感覚ですよ。
特定の宗教でもなければ儀式でもない自由なもの。
誰の影響を受けたものでもなく経験から学んだもの。
もちろん介護はあたしには大きなワークだよ。
天と地にある点を
線でそれぞれつなげていく神秘的な世界。
闇と光の架け橋。
形式や儀式めいた何かを追求するでなく
自分なりの自由な方法で自然の歌を聴き、
宇宙のリズムに導かれた
魂のメッセージを受け取ることができればそれでいい。
何かヒーリングやスピリチュアルなグッズを買って
それだけで癒されると思っていたとしたら悲しいことだよ。
そんなことなんかよりもまず
もっと空を見上げて。
風を感じて。
雨の音をきいて。
そして大地を思い切り踏みしめて。
今ここ、に生きていることを感じとって。
そうやって自然がくれるメッセージを受け取ってほしい。
自然は時に人間にとって辛くあたるけど
地球は生きているのだから。
だからあたしたちも生きているってことを忘れないでほしい。
そして何よりも大切なことは
宇宙の流れに心地よくつながることなんだってあたしは思うよ。
こんなかんじで介護が導いた魂のワークについて
この先少しずつ書いていこうかと思います。
(To Be Continue)
★心配していらした富山近辺の方がたへ
いきなり富山を限定されて驚いてらっしゃるかと思いますがあたしも驚いています。
13日朝4時に震度8の地震ということですが
地震の知識がない予言をされる方は日本は震度7までしかないことをご存じないようですね。
結論からいえばそこまでの反応はでていません。
いわゆる地震雲は魚津のライブカメラにて何度かみましたが
地震雲というのは震源方向があり
その土地でかならずおきるわけではありません。
富山はうちからみて北西方向なんですがうちから北西方面へむかうそれらしき雲を先日みたのは事実です。
しかしうちからみた北西すべてにあてはまるわけで
なおかつ気象性の可能性もあり見分けはむつかしいです。
そこで各種レーダーでみていますが
日本海より太平洋で活発なことが最近は多く
もし気になるようでしたら深海魚がとれる場合は大きな地震がおきることが多いようなので
最終的にはそういった前兆で判断すべきかと思います。
たとえば猫がまわりからいなくなったとか
鳥が大群でどこかにとんでいくのをみたなど。
身近な電化製品に異常はありますか?
携帯電話はどうですか?
そんな現象が数多く報告されたら警戒すべきです。
地震雲やレーダーなどである程度のエリアを絞ることはできますが
先日南関東でかなり前兆がみられましたが今だに地震がありません。
前兆がたくさんあるのにそれ相応のものがないほうが地震を研究する身としては恐く思います。
過去例としては雨より晴れのほうが地震は多いです。
低気圧や台風の動きにも気を付けてください。
いまのところレーダーなどで富山の反応はほとんどありません。
これについては明日夜また解析してみます。
まずは身近な現象がないか気を付けて観察することをおすすめします。
井戸水の温度変化などはかるのもよいでしょう。
大きな地震の前には硫黄のような異臭がするらしいこと
直前には地鳴りをともなうことも覚えておいてください。 異様に赤い朝、夕焼けはありませんか?
朝やけは雨、夕焼けは晴れとはいいますが
明らかに血のようなどす黒い赤焼けのときは大きな前兆です。
そのときは近くでおこるかもしれないことも警戒すべきです。
ジュセリーノは10月に大阪に地震がきてかなりの方がなくなる予言をしてます。
今年三月は関東にあるといってましたがあたりましたか?
新潟や能登をあててますか?
そういうことも考えるべきです。
ちなみに彼はカルト教団の人間であることも付け加えておきます。
魚津の件については一番最後を御覧ください(後日削除)
7月20日で祖母が転倒し、手術してから一年以上が過ぎた。
この1年、そして、今日という日もなんとか無事に終えられたことに感謝しています。
9月11日は同時多発テロがあった日ですが
祖母が転院した日でもありました。
そんな思いも込めて1年以上たちおちついてきたので
介護によって家族が変わったこととか
介護に対してのいろいろな思い、
介護を通して導かれたあたし独自の考え...
時々小出しにして(笑)書いていきたいと思います。
*
「フツウだ」と思っていることは本当はフツウじゃないってこと。
そんな単純なことにやっと気づいたのが去年7月のことだ。
あたしはあの日以来、普通ってもんがどんなに幸せなことなのか、よくわかった。
「普通でない日」というのはある日突然やってくるんだ。
昨日乙女座の新月について書いたけど
乙女座のテーマは健康とか秩序、だ。
病気にならなければ健康であることに感謝をなかなかしにくいものだ。
怪我をしたり事故にあってみてはじめて「健康」ってどんなにありがたいものかがわかるのだ。
今年はいのしし年でもある。
いのししの年は災害が多いといわれている。
現に今年はすでに2回も日本海を大きな被害地震が襲った。
12年前1995年は阪神淡路大震災がおきた。
台風シーズンになり先日の台風が環境ほか経済的損失をもたらした影響は濃い。
7月に新潟の震災の報道を見ていて
「水がどれだけありがたいのか初めてわかった」といっていた方がいらした。
いつも当たり前のようにあるもの、
当たり前のように接している大切な家族や友達
当たり前のようにしている趣味、
当たり前のように食べていたりとか、
当たり前のように安らいだ眠りにつくとか、
一見それは「当たり前」のように見えて「当たり前」ではないのだ。
「健康」も「日常」っていう状態も存在しうる全てのものはきっと
失ってみてはじめてそのありがたさがわかるのだろうし
逆に言えば失わなければなかなか感謝ってできないものなのかもしれない。
だけど、失ってからでは遅すぎる。
これまであたしが祖母と暮らしていた「当たり前」の日々。
こんな平穏な日常がある日当たり前、でなくなったら?
確かにこれは不幸なことだ。
祖母は一人では歩けないし、
あたしは祖母の介護をするために24時間ほぼ家にいることを余儀なくされている。
父親も実家に住んでいたのが週の半分は東京にいることになる...
一見それは祖母の事故で祖母だけがトラブルに巻き込まれて辛い思いをするかと思うけど
誰か一人のトラブルというのは時として家族をも巻き込む結果となる。
近所の方に道端であって挨拶をすると
「おばぁちゃんどう?」と聞かれる。
そして必ずいわれるのが
「あなたも若いのにね...いつか生きていればいいことあるわよ」
このセリフをかなり多くのヒトからこれまで言われてきた。
少なくとも10人以上。
それだけ介護=不幸という常識に世間ではなっているらしい。
だからあたしも悲劇の主人公ではないけど、これは不幸だと思ってきた。
確かに介護に対しそういう辛いばかりのイメージがつきまとっていたのは事実だ。
最初あたしが介護を引き受けなければならない状況のとき
わかってはいたけどそんな現実を受け入れたくない自分がいたのも事実だった。
責任の重さは今でも相当感じて祖母と接している。
しかしはたしてそこまで介護をする家族すべてが常に不幸なんだろうかとあたしは問う。
要介護の状態はもちろん精神的肉体的辛さを周りにもたらす。
それは本人だけでなく家族全員の辛さでもある。
だけどそれは本当に絶対的不幸なのか。
介護から学んだことは大きいし確実に成長させてくれた。
そして祖母と密に接しているわけで
誰かと密に接することの大切さも学んだ。
しかしこれは肉親だからこそこんな考えができるのだ。
介護の実際はお嫁さんがやってることのほうが日本でははるかに多いのだ。
それにまだ若いからこういう考えができるのかもしれないが...
というのも今介護をしている多くが老老介護、
要するに90歳の親を70歳の娘が介護したり
85歳の夫を83歳の妻が支えたり、
そういうケースが増えてきてるしこれからはさらに増えるだろう。
介護が原因で心中という血なまぐさいことが現実問題かなりあるし
今の政治のままではこれからもどんどん増えていくでしょう。
現在の福祉や高齢者切捨ての行政のあり方はかなり怒りを覚える由々しき事態だ。
「今後の生活を守られ保障されている政治屋」になど所詮わからないレベルだ。
国民目線の政治なんて当然成り立ちはしないだろう。
この介護を通して1年だけど学んだことは相当ある。
介護を通してさまざまなものの見方がガラリと変わっていった。
逆に言えば去年の相続、介護を通さなければここまで成長できなかったと思うことがかなり多い。
あたしにとって介護は必要な人生のワークだったのだ。
そして思ったのは祖母が要介護という状態になることで
家族の問題の膿を出したような結果となったと気づかされた。
そもそも放置していた問題点は大きな衝撃がない限り現状維持のままでなかなか前にコマが進めないものだ。
今回のようなトラブルがあったからこそ解決しようと真剣に考えるわけだし、
問題に対して本気になって取り組めたのだ。
バラバラになったひとつのパズル。
最初の絵はどんなだったっけ?
などと想像しながら手探りでピースをはめていく。
そんな作業になんか似ている。
たしかに祖母の不注意で事故にあったのだけど
介護はあたしや家族にとって、まさに人生のワークとなっている。
いや、前向きとかそんなじゃなくてね、
あたしの好きな"Go with the Flow"って言葉を考えるほどに
今の人生は、大きな宇宙の流れのうちの
小さな、だけど気高い
ひとつの魂の旅の途中なんだってふうに思う。
運命の役割や魂の目的のようなものを別に探すでもなく
流れに乗って生きていけば、
きっとそういうふうに仕組まれているんだろうから
まずは本当の自分の声をしっかりきいてあげて、自分の魂を大切にしてあげて
そして目の前のことに真剣に取り組むことが大切なんだろうね。
自分の肉体を離れるまでのわずかな間は
宇宙の流れみたいな運命のリズムのようなものを
楽しむくらいの感覚がいいんだろうね。
そんなふうに生きられればきっと
目の前に何が起こっても動揺せず
魂からのメッセージを聞くことができる。
これまでは「この世界はとっても生きにくい」とばかり思っていたけど
生きにくい世界はあたし自身が作り出していたものなのだって思うようになった。
宇宙のリズムはそんなことを教えてくれてる。
すべての真実なんてもんは
きっと極めてシンプルにできているはずなんだよね。
運命に逆らわず、流されず、
だけど意思を持って流れに乗って生きてゆきたい。
そんなことをれいあさんは今となっては思うのでした。
スピリチュアルですかね?(笑)
そうね、あたしにとってのスピリチュアルってこんな感覚ですよ。
特定の宗教でもなければ儀式でもない自由なもの。
誰の影響を受けたものでもなく経験から学んだもの。
もちろん介護はあたしには大きなワークだよ。
天と地にある点を
線でそれぞれつなげていく神秘的な世界。
闇と光の架け橋。
形式や儀式めいた何かを追求するでなく
自分なりの自由な方法で自然の歌を聴き、
宇宙のリズムに導かれた
魂のメッセージを受け取ることができればそれでいい。
何かヒーリングやスピリチュアルなグッズを買って
それだけで癒されると思っていたとしたら悲しいことだよ。
そんなことなんかよりもまず
もっと空を見上げて。
風を感じて。
雨の音をきいて。
そして大地を思い切り踏みしめて。
今ここ、に生きていることを感じとって。
そうやって自然がくれるメッセージを受け取ってほしい。
自然は時に人間にとって辛くあたるけど
地球は生きているのだから。
だからあたしたちも生きているってことを忘れないでほしい。
そして何よりも大切なことは
宇宙の流れに心地よくつながることなんだってあたしは思うよ。
こんなかんじで介護が導いた魂のワークについて
この先少しずつ書いていこうかと思います。
(To Be Continue)
★心配していらした富山近辺の方がたへ
いきなり富山を限定されて驚いてらっしゃるかと思いますがあたしも驚いています。
13日朝4時に震度8の地震ということですが
地震の知識がない予言をされる方は日本は震度7までしかないことをご存じないようですね。
結論からいえばそこまでの反応はでていません。
いわゆる地震雲は魚津のライブカメラにて何度かみましたが
地震雲というのは震源方向があり
その土地でかならずおきるわけではありません。
富山はうちからみて北西方向なんですがうちから北西方面へむかうそれらしき雲を先日みたのは事実です。
しかしうちからみた北西すべてにあてはまるわけで
なおかつ気象性の可能性もあり見分けはむつかしいです。
そこで各種レーダーでみていますが
日本海より太平洋で活発なことが最近は多く
もし気になるようでしたら深海魚がとれる場合は大きな地震がおきることが多いようなので
最終的にはそういった前兆で判断すべきかと思います。
たとえば猫がまわりからいなくなったとか
鳥が大群でどこかにとんでいくのをみたなど。
身近な電化製品に異常はありますか?
携帯電話はどうですか?
そんな現象が数多く報告されたら警戒すべきです。
地震雲やレーダーなどである程度のエリアを絞ることはできますが
先日南関東でかなり前兆がみられましたが今だに地震がありません。
前兆がたくさんあるのにそれ相応のものがないほうが地震を研究する身としては恐く思います。
過去例としては雨より晴れのほうが地震は多いです。
低気圧や台風の動きにも気を付けてください。
いまのところレーダーなどで富山の反応はほとんどありません。
これについては明日夜また解析してみます。
まずは身近な現象がないか気を付けて観察することをおすすめします。
井戸水の温度変化などはかるのもよいでしょう。
大きな地震の前には硫黄のような異臭がするらしいこと
直前には地鳴りをともなうことも覚えておいてください。 異様に赤い朝、夕焼けはありませんか?
朝やけは雨、夕焼けは晴れとはいいますが
明らかに血のようなどす黒い赤焼けのときは大きな前兆です。
そのときは近くでおこるかもしれないことも警戒すべきです。
ジュセリーノは10月に大阪に地震がきてかなりの方がなくなる予言をしてます。
今年三月は関東にあるといってましたがあたりましたか?
新潟や能登をあててますか?
そういうことも考えるべきです。
ちなみに彼はカルト教団の人間であることも付け加えておきます。
★検索でいらした富山近辺の方がたへ。
魚津の件については一番最後を御覧ください(後日削除)
7月20日で祖母が転倒し、手術してから一年以上が過ぎた。
この1年、そして、今日という日もなんとか無事に終えられたことに感謝しています。
9月11日は同時多発テロがあった日ですが
祖母が転院した日でもありました。
そんな思いも込めて1年以上たちおちついてきたので
介護によって家族が変わったこととか
介護に対してのいろいろな思い、
介護を通して導かれたあたし独自の考え...
時々小出しにして(笑)書いていきたいと思います。
*
「フツウだ」と思っていることは本当はフツウじゃないってこと。
そんな単純なことにやっと気づいたのが去年7月のことだ。
あたしはあの日以来、普通ってもんがどんなに幸せなことなのか、よくわかった。
「普通でない日」というのはある日突然やってくるんだ。
昨日乙女座の新月について書いたけど
乙女座のテーマは健康とか秩序、だ。
病気にならなければ健康であることに感謝をなかなかしにくいものだ。
怪我をしたり事故にあってみてはじめて「健康」ってどんなにありがたいものかがわかるのだ。
今年はいのしし年でもある。
いのししの年は災害が多いといわれている。
現に今年はすでに2回も日本海を大きな被害地震が襲った。
12年前1995年は阪神淡路大震災がおきた。
台風シーズンになり先日の台風が環境ほか経済的損失をもたらした影響は濃い。
7月に新潟の震災の報道を見ていて
「水がどれだけありがたいのか初めてわかった」といっていた方がいらした。
いつも当たり前のようにあるもの、
当たり前のように接している大切な家族や友達
当たり前のようにしている趣味、
当たり前のように食べていたりとか、
当たり前のように安らいだ眠りにつくとか、
一見それは「当たり前」のように見えて「当たり前」ではないのだ。
「健康」も「日常」っていう状態も存在しうる全てのものはきっと
失ってみてはじめてそのありがたさがわかるのだろうし
逆に言えば失わなければなかなか感謝ってできないものなのかもしれない。
だけど、失ってからでは遅すぎる。
これまであたしが祖母と暮らしていた「当たり前」の日々。
こんな平穏な日常がある日当たり前、でなくなったら?
確かにこれは不幸なことだ。
祖母は一人では歩けないし、
あたしは祖母の介護をするために24時間ほぼ家にいることを余儀なくされている。
父親も実家に住んでいたのが週の半分は東京にいることになる...
一見それは祖母の事故で祖母だけがトラブルに巻き込まれて辛い思いをするかと思うけど
誰か一人のトラブルというのは時として家族をも巻き込む結果となる。
近所の方に道端であって挨拶をすると
「おばぁちゃんどう?」と聞かれる。
そして必ずいわれるのが
「あなたも若いのにね...いつか生きていればいいことあるわよ」
このセリフをかなり多くのヒトからこれまで言われてきた。
少なくとも10人以上。
それだけ介護=不幸という常識に世間ではなっているらしい。
だからあたしも悲劇の主人公ではないけど、これは不幸だと思ってきた。
確かに介護に対しそういう辛いばかりのイメージがつきまとっていたのは事実だ。
最初あたしが介護を引き受けなければならない状況のとき
わかってはいたけどそんな現実を受け入れたくない自分がいたのも事実だった。
責任の重さは今でも相当感じて祖母と接している。
しかしはたしてそこまで介護をする家族すべてが常に不幸なんだろうかとあたしは問う。
要介護の状態はもちろん精神的肉体的辛さを周りにもたらす。
それは本人だけでなく家族全員の辛さでもある。
だけどそれは本当に絶対的不幸なのか。
介護から学んだことは大きいし確実に成長させてくれた。
そして祖母と密に接しているわけで
誰かと密に接することの大切さも学んだ。
しかしこれは肉親だからこそこんな考えができるのだ。
介護の実際はお嫁さんがやってることのほうが日本でははるかに多いのだ。
それにまだ若いからこういう考えができるのかもしれないが...
というのも今介護をしている多くが老老介護、
要するに90歳の親を70歳の娘が介護したり
85歳の夫を83歳の妻が支えたり、
そういうケースが増えてきてるしこれからはさらに増えるだろう。
介護が原因で心中という血なまぐさいことが現実問題かなりあるし
今の政治のままではこれからもどんどん増えていくでしょう。
現在の福祉や高齢者切捨ての行政のあり方はかなり怒りを覚える由々しき事態だ。
「今後の生活を守られ保障されている政治屋」になど所詮わからないレベルだ。
国民目線の政治なんて当然成り立ちはしないだろう。
この介護を通して1年だけど学んだことは相当ある。
介護を通してさまざまなものの見方がガラリと変わっていった。
逆に言えば去年の相続、介護を通さなければここまで成長できなかったと思うことがかなり多い。
あたしにとって介護は必要な人生のワークだったのだ。
そして思ったのは祖母が要介護という状態になることで
家族の問題の膿を出したような結果となったと気づかされた。
そもそも放置していた問題点は大きな衝撃がない限り現状維持のままでなかなか前にコマが進めないものだ。
今回のようなトラブルがあったからこそ解決しようと真剣に考えるわけだし、
問題に対して本気になって取り組めたのだ。
バラバラになったひとつのパズル。
最初の絵はどんなだったっけ?
などと想像しながら手探りでピースをはめていく。
そんな作業になんか似ている。
たしかに祖母の不注意で事故にあったのだけど
介護はあたしや家族にとって、まさに人生のワークとなっている。
いや、前向きとかそんなじゃなくてね、
あたしの好きな"Go with the Flow"って言葉を考えるほどに
今の人生は、大きな宇宙の流れのうちの
小さな、だけど気高い
ひとつの魂の旅の途中なんだってふうに思う。
運命の役割や魂の目的のようなものを別に探すでもなく
流れに乗って生きていけば、
きっとそういうふうに仕組まれているんだろうから
まずは本当の自分の声をしっかりきいてあげて、自分の魂を大切にしてあげて
そして目の前のことに真剣に取り組むことが大切なんだろうね。
自分の肉体を離れるまでのわずかな間は
宇宙の流れみたいな運命のリズムのようなものを
楽しむくらいの感覚がいいんだろうね。
そんなふうに生きられればきっと
目の前に何が起こっても動揺せず
魂からのメッセージを聞くことができる。
これまでは「この世界はとっても生きにくい」とばかり思っていたけど
生きにくい世界はあたし自身が作り出していたものなのだって思うようになった。
宇宙のリズムはそんなことを教えてくれてる。
すべての真実なんてもんは
きっと極めてシンプルにできているはずなんだよね。
運命に逆らわず、流されず、
だけど意思を持って流れに乗って生きてゆきたい。
そんなことをれいあさんは今となっては思うのでした。
スピリチュアルですかね?(笑)
そうね、あたしにとってのスピリチュアルってこんな感覚ですよ。
特定の宗教でもなければ儀式でもない自由なもの。
誰の影響を受けたものでもなく経験から学んだもの。
もちろん介護はあたしには大きなワークだよ。
天と地にある点を
線でそれぞれつなげていく神秘的な世界。
闇と光の架け橋。
形式や儀式めいた何かを追求するでなく
自分なりの自由な方法で自然の歌を聴き、
宇宙のリズムに導かれた
魂のメッセージを受け取ることができればそれでいい。
何かヒーリングやスピリチュアルなグッズを買って
それだけで癒されると思っていたとしたら悲しいことだよ。
そんなことなんかよりもまず
もっと空を見上げて。
風を感じて。
雨の音をきいて。
そして大地を思い切り踏みしめて。
今ここ、に生きていることを感じとって。
そうやって自然がくれるメッセージを受け取ってほしい。
自然は時に人間にとって辛くあたるけど
地球は生きているのだから。
だからあたしたちも生きているってことを忘れないでほしい。
そして何よりも大切なことは
宇宙の流れに心地よくつながることなんだってあたしは思うよ。
こんなかんじで介護が導いた魂のワークについて
この先少しずつ書いていこうかと思います。
(To Be Continue)
★心配していらした富山近辺の方がたへ
いきなり富山を限定されて驚いてらっしゃるかと思いますがあたしも驚いています。
13日朝4時に震度8の地震ということですが
地震の知識がない予言をされる方は日本は震度7までしかないことをご存じないようですね。
結論からいえばそこまでの反応はでていません。
いわゆる地震雲は魚津のライブカメラにて何度かみましたが
地震雲というのは震源方向があり
その土地でかならずおきるわけではありません。
富山はうちからみて北西方向なんですがうちから北西方面へむかうそれらしき雲を先日みたのは事実です。
しかしうちからみた北西すべてにあてはまるわけで
なおかつ気象性の可能性もあり見分けはむつかしいです。
そこで各種レーダーでみていますが
日本海より太平洋で活発なことが最近は多く
もし気になるようでしたら深海魚がとれる場合は大きな地震がおきることが多いようなので
最終的にはそういった前兆で判断すべきかと思います。
たとえば猫がまわりからいなくなったとか
鳥が大群でどこかにとんでいくのをみたなど。
身近な電化製品に異常はありますか?
携帯電話はどうですか?
そんな現象が数多く報告されたら警戒すべきです。
地震雲やレーダーなどである程度のエリアを絞ることはできますが
先日南関東でかなり前兆がみられましたが今だに地震がありません。
前兆がたくさんあるのにそれ相応のものがないほうが地震を研究する身としては恐く思います。
過去例としては雨より晴れのほうが地震は多いです。
低気圧や台風の動きにも気を付けてください。
いまのところレーダーなどで富山の反応はほとんどありません。
これについては明日夜また解析してみます。
まずは身近な現象がないか気を付けて観察することをおすすめします。
井戸水の温度変化などはかるのもよいでしょう。
大きな地震の前には硫黄のような異臭がするらしいこと
直前には地鳴りをともなうことも覚えておいてください。 異様に赤い朝、夕焼けはありませんか?
朝やけは雨、夕焼けは晴れとはいいますが
明らかに血のようなどす黒い赤焼けのときは大きな前兆です。
そのときは近くでおこるかもしれないことも警戒すべきです。
ジュセリーノは10月に大阪に地震がきてかなりの方がなくなる予言をしてます。
今年三月は関東にあるといってましたがあたりましたか?
新潟や能登をあててますか?
そういうことも考えるべきです。
ちなみに彼はカルト教団の人間であることも付け加えておきます。
魚津の件については一番最後を御覧ください(後日削除)
7月20日で祖母が転倒し、手術してから一年以上が過ぎた。
この1年、そして、今日という日もなんとか無事に終えられたことに感謝しています。
9月11日は同時多発テロがあった日ですが
祖母が転院した日でもありました。
そんな思いも込めて1年以上たちおちついてきたので
介護によって家族が変わったこととか
介護に対してのいろいろな思い、
介護を通して導かれたあたし独自の考え...
時々小出しにして(笑)書いていきたいと思います。
*
「フツウだ」と思っていることは本当はフツウじゃないってこと。
そんな単純なことにやっと気づいたのが去年7月のことだ。
あたしはあの日以来、普通ってもんがどんなに幸せなことなのか、よくわかった。
「普通でない日」というのはある日突然やってくるんだ。
昨日乙女座の新月について書いたけど
乙女座のテーマは健康とか秩序、だ。
病気にならなければ健康であることに感謝をなかなかしにくいものだ。
怪我をしたり事故にあってみてはじめて「健康」ってどんなにありがたいものかがわかるのだ。
今年はいのしし年でもある。
いのししの年は災害が多いといわれている。
現に今年はすでに2回も日本海を大きな被害地震が襲った。
12年前1995年は阪神淡路大震災がおきた。
台風シーズンになり先日の台風が環境ほか経済的損失をもたらした影響は濃い。
7月に新潟の震災の報道を見ていて
「水がどれだけありがたいのか初めてわかった」といっていた方がいらした。
いつも当たり前のようにあるもの、
当たり前のように接している大切な家族や友達
当たり前のようにしている趣味、
当たり前のように食べていたりとか、
当たり前のように安らいだ眠りにつくとか、
一見それは「当たり前」のように見えて「当たり前」ではないのだ。
「健康」も「日常」っていう状態も存在しうる全てのものはきっと
失ってみてはじめてそのありがたさがわかるのだろうし
逆に言えば失わなければなかなか感謝ってできないものなのかもしれない。
だけど、失ってからでは遅すぎる。
これまであたしが祖母と暮らしていた「当たり前」の日々。
こんな平穏な日常がある日当たり前、でなくなったら?
確かにこれは不幸なことだ。
祖母は一人では歩けないし、
あたしは祖母の介護をするために24時間ほぼ家にいることを余儀なくされている。
父親も実家に住んでいたのが週の半分は東京にいることになる...
一見それは祖母の事故で祖母だけがトラブルに巻き込まれて辛い思いをするかと思うけど
誰か一人のトラブルというのは時として家族をも巻き込む結果となる。
近所の方に道端であって挨拶をすると
「おばぁちゃんどう?」と聞かれる。
そして必ずいわれるのが
「あなたも若いのにね...いつか生きていればいいことあるわよ」
このセリフをかなり多くのヒトからこれまで言われてきた。
少なくとも10人以上。
それだけ介護=不幸という常識に世間ではなっているらしい。
だからあたしも悲劇の主人公ではないけど、これは不幸だと思ってきた。
確かに介護に対しそういう辛いばかりのイメージがつきまとっていたのは事実だ。
最初あたしが介護を引き受けなければならない状況のとき
わかってはいたけどそんな現実を受け入れたくない自分がいたのも事実だった。
責任の重さは今でも相当感じて祖母と接している。
しかしはたしてそこまで介護をする家族すべてが常に不幸なんだろうかとあたしは問う。
要介護の状態はもちろん精神的肉体的辛さを周りにもたらす。
それは本人だけでなく家族全員の辛さでもある。
だけどそれは本当に絶対的不幸なのか。
介護から学んだことは大きいし確実に成長させてくれた。
そして祖母と密に接しているわけで
誰かと密に接することの大切さも学んだ。
しかしこれは肉親だからこそこんな考えができるのだ。
介護の実際はお嫁さんがやってることのほうが日本でははるかに多いのだ。
それにまだ若いからこういう考えができるのかもしれないが...
というのも今介護をしている多くが老老介護、
要するに90歳の親を70歳の娘が介護したり
85歳の夫を83歳の妻が支えたり、
そういうケースが増えてきてるしこれからはさらに増えるだろう。
介護が原因で心中という血なまぐさいことが現実問題かなりあるし
今の政治のままではこれからもどんどん増えていくでしょう。
現在の福祉や高齢者切捨ての行政のあり方はかなり怒りを覚える由々しき事態だ。
「今後の生活を守られ保障されている政治屋」になど所詮わからないレベルだ。
国民目線の政治なんて当然成り立ちはしないだろう。
この介護を通して1年だけど学んだことは相当ある。
介護を通してさまざまなものの見方がガラリと変わっていった。
逆に言えば去年の相続、介護を通さなければここまで成長できなかったと思うことがかなり多い。
あたしにとって介護は必要な人生のワークだったのだ。
そして思ったのは祖母が要介護という状態になることで
家族の問題の膿を出したような結果となったと気づかされた。
そもそも放置していた問題点は大きな衝撃がない限り現状維持のままでなかなか前にコマが進めないものだ。
今回のようなトラブルがあったからこそ解決しようと真剣に考えるわけだし、
問題に対して本気になって取り組めたのだ。
バラバラになったひとつのパズル。
最初の絵はどんなだったっけ?
などと想像しながら手探りでピースをはめていく。
そんな作業になんか似ている。
たしかに祖母の不注意で事故にあったのだけど
介護はあたしや家族にとって、まさに人生のワークとなっている。
いや、前向きとかそんなじゃなくてね、
あたしの好きな"Go with the Flow"って言葉を考えるほどに
今の人生は、大きな宇宙の流れのうちの
小さな、だけど気高い
ひとつの魂の旅の途中なんだってふうに思う。
運命の役割や魂の目的のようなものを別に探すでもなく
流れに乗って生きていけば、
きっとそういうふうに仕組まれているんだろうから
まずは本当の自分の声をしっかりきいてあげて、自分の魂を大切にしてあげて
そして目の前のことに真剣に取り組むことが大切なんだろうね。
自分の肉体を離れるまでのわずかな間は
宇宙の流れみたいな運命のリズムのようなものを
楽しむくらいの感覚がいいんだろうね。
そんなふうに生きられればきっと
目の前に何が起こっても動揺せず
魂からのメッセージを聞くことができる。
これまでは「この世界はとっても生きにくい」とばかり思っていたけど
生きにくい世界はあたし自身が作り出していたものなのだって思うようになった。
宇宙のリズムはそんなことを教えてくれてる。
すべての真実なんてもんは
きっと極めてシンプルにできているはずなんだよね。
運命に逆らわず、流されず、
だけど意思を持って流れに乗って生きてゆきたい。
そんなことをれいあさんは今となっては思うのでした。
スピリチュアルですかね?(笑)
そうね、あたしにとってのスピリチュアルってこんな感覚ですよ。
特定の宗教でもなければ儀式でもない自由なもの。
誰の影響を受けたものでもなく経験から学んだもの。
もちろん介護はあたしには大きなワークだよ。
天と地にある点を
線でそれぞれつなげていく神秘的な世界。
闇と光の架け橋。
形式や儀式めいた何かを追求するでなく
自分なりの自由な方法で自然の歌を聴き、
宇宙のリズムに導かれた
魂のメッセージを受け取ることができればそれでいい。
何かヒーリングやスピリチュアルなグッズを買って
それだけで癒されると思っていたとしたら悲しいことだよ。
そんなことなんかよりもまず
もっと空を見上げて。
風を感じて。
雨の音をきいて。
そして大地を思い切り踏みしめて。
今ここ、に生きていることを感じとって。
そうやって自然がくれるメッセージを受け取ってほしい。
自然は時に人間にとって辛くあたるけど
地球は生きているのだから。
だからあたしたちも生きているってことを忘れないでほしい。
そして何よりも大切なことは
宇宙の流れに心地よくつながることなんだってあたしは思うよ。
こんなかんじで介護が導いた魂のワークについて
この先少しずつ書いていこうかと思います。
(To Be Continue)
★心配していらした富山近辺の方がたへ
いきなり富山を限定されて驚いてらっしゃるかと思いますがあたしも驚いています。
13日朝4時に震度8の地震ということですが
地震の知識がない予言をされる方は日本は震度7までしかないことをご存じないようですね。
結論からいえばそこまでの反応はでていません。
いわゆる地震雲は魚津のライブカメラにて何度かみましたが
地震雲というのは震源方向があり
その土地でかならずおきるわけではありません。
富山はうちからみて北西方向なんですがうちから北西方面へむかうそれらしき雲を先日みたのは事実です。
しかしうちからみた北西すべてにあてはまるわけで
なおかつ気象性の可能性もあり見分けはむつかしいです。
そこで各種レーダーでみていますが
日本海より太平洋で活発なことが最近は多く
もし気になるようでしたら深海魚がとれる場合は大きな地震がおきることが多いようなので
最終的にはそういった前兆で判断すべきかと思います。
たとえば猫がまわりからいなくなったとか
鳥が大群でどこかにとんでいくのをみたなど。
身近な電化製品に異常はありますか?
携帯電話はどうですか?
そんな現象が数多く報告されたら警戒すべきです。
地震雲やレーダーなどである程度のエリアを絞ることはできますが
先日南関東でかなり前兆がみられましたが今だに地震がありません。
前兆がたくさんあるのにそれ相応のものがないほうが地震を研究する身としては恐く思います。
過去例としては雨より晴れのほうが地震は多いです。
低気圧や台風の動きにも気を付けてください。
いまのところレーダーなどで富山の反応はほとんどありません。
これについては明日夜また解析してみます。
まずは身近な現象がないか気を付けて観察することをおすすめします。
井戸水の温度変化などはかるのもよいでしょう。
大きな地震の前には硫黄のような異臭がするらしいこと
直前には地鳴りをともなうことも覚えておいてください。 異様に赤い朝、夕焼けはありませんか?
朝やけは雨、夕焼けは晴れとはいいますが
明らかに血のようなどす黒い赤焼けのときは大きな前兆です。
そのときは近くでおこるかもしれないことも警戒すべきです。
ジュセリーノは10月に大阪に地震がきてかなりの方がなくなる予言をしてます。
今年三月は関東にあるといってましたがあたりましたか?
新潟や能登をあててますか?
そういうことも考えるべきです。
ちなみに彼はカルト教団の人間であることも付け加えておきます。