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先日実家の近くの不二家があった場所をたまたま通りかかった。
もともと高架下にあったのもあって人気は少なかったけど
やはり、ともいうべきか、とうとうクローズしてしまったようだ。
もしかしたら赤字続きだったとして、
よく思えば「いいきっかけだったのかもしれない」ともとれるけどね。
こうやって一箇所、どこかで「悪事」を働くとひょんなことからそれは大きなものとなってある日突然現れるから怖い。
あるあるのこともそうだったよね。
どこまでが演出で、どこまでがやらせ、か。
これはマスコミの倫理観を問うた問題へと発展していったけど
TBSの問題にしてもそうだけど
次から次へと出てくるのは
ユーザーがこの問題に過敏になっているから、というだけではなかろう。
前回、憎しみは憎しみを呼ぶ、と書いたわけだけど
負は負を呼ぶのだ。
なにかの甘い、誘い水。
本当は「負」にヴェールという名前のオブラートをかけただけのものに手を染めるという
「誘惑」
たしかに人間にはさまざまな欲があるし
それはしごく当然ではあるのだけど
憎しみは憎しみを呼ぶ。
長崎市長殺害の犯人というのは以前の恐喝などでもわかるけど
お金という自分の欲のために、ということから
相当前から自らを見失っているわけであって
確かに欲というのは怖いものであるわけだね。
金は人を変えてしまうのも事実だ。
たしかにお金そのものは悪いものではないけど
それについてくる欲がやっかいなものなのだ。
今のスピリチュアルブームでお金をほしがることをやけに正当化しているのが
なんとなく気になって仕方ないのだけど、
あたしにはそちらの思想はどうやら関係なさそうだ。
普通は欲には理性をもってして自らを律するのだけど
それもまたまた難しいものだ。
たとえば甘いもの。
砂糖には依存物質が含まれているので
甘いものが好きな人には
砂糖を含むお菓子とかをこれまで我慢してても
ちょっとだけ...と食べたらもう最後!
自制心がききません(笑
そして鬱も鬱を呼ぶ。
これがいわゆる鬱連鎖だ。
心が健常な人でも鬱ウツな状態の人と接すると
なんとなぁ〜く...な感じになる。
ウツの人間には励ましは禁句。
がんばれだなんていえないわけだ。
そういうとき、どうやって接するべきなのか、とか
なれない人には難しいし、
また、変に相手に期待されてしまうことも、
とくに相手がボーダーの場合なんかは大変だ。
あたしもかつてウツがひどかったし、ボーダーラインだったから
余計に接することの難しさが当事者としてわかる。
考えてみれば
笑顔の人のところには
いつも楽しそうでにぎやかな人のところには
悪いものも吹き飛ばすくらいのエネルギーや強さを感じる。
気づいてみればあたしの身の回りには
そういう「Happy」オーラを身にまとった人が多いかもしれないと思った。
あたしはそういう彼らのオーラをもらっている。
オーラってさ、感情、メンタルを越えた場所、
魂レベルの問題だけど
ちょっとしたことでバランスって崩れてしまうものだから。
人ごみの中にいるとカラダや感情は普通なはずなのに、
なんか疲れた、なんてときは
あんまつかいたくないことばだけど
まさにオーラが疲れている時なのよ。
逆もいえるとあたしは思っていて
楽しかったり、なぜかこの人といると元気が出るって人、いない?
そんなときはその人からいいオーラをもらってる時だよね。
アストラル体やエーテル体の話までは今はしないで
わかりやすくオーラの話でとどめておきます。
そんなわけで、笑う門には福来るとは昔の人がいったけど
本当に言い得て妙だなって思う。
憎しみなどの負の連鎖を断ち切るのはひとつ、
勇気、だよね。
なんの勇気かといえば
赦す勇気。
赦して、受け入れること、
だなんてキリスト教っぽいかもしれないかな。
マザーテレサの言葉だったか
「赦しは最大の復讐」
という言葉があったよね。
ひとつのguilty(罪)を問うとき
not guiltyは必ずしもinnocent、無罪ではないわけだ。
アメリカで32人も銃殺した韓国人の話をきいたとき
アングリ・マーラの話をまず最初に思い出した。
善良なる人々を次々に殺しては、
彼らの指をとって
それを首飾りとしていたというブッダの話。
人は救いを求め、
癒しを求め、
赦しを請う生き物なのだろうか。
生まれてきたときから誰かしらに迷惑をかけてきてるわけだし
人はひとりでは決して生きられない。
キリスト教では
人は生まれながらにして罪を背負っているというわけか。
この世の中にはさまざまな宗教があるけど
その多くが赦しや、慈悲、無条件の愛、感謝をテーマにしている。
それだけ「赦す」ことというのは
人間にとっての
「悲しみ」
「苦しみ」
「葛藤」
などから解放される
永遠のテーマなのかもしれない。
今口にしている食べ物も全ての命の根源になっているのだから
やはり健康に感謝は日々しないといけないよね。
叔父や祖父の法事のときなどで
般若心経の紙が渡されて
それを一緒に唱えるわけだけど
般若心経の言葉の中に
「色即是空」
って言葉がある。
この世の全ては空だとする説、しない説はあるが、
あるがままを受け入れ、
一切執着のない空の世界から人々はやってきて
そこへ再び戻りゆく。
何もないところからやってきて、
悲しみだけでない、喜びも含めて
いろいろな「現実」体験をし、やがて帰衣する。
だけどそういったことを経験できるということは
まさにキセキであって
このキセキに、生まれてきたことに感謝をしないといけないんだよね。
人を恨むことは辛い。
人を赦すときっと、少しずつラクになれるはず。
悲しんでいきていくのは辛い。
だけどその分、強く、やさしくなれるはず。
生まれてきたことが、奇跡。
生きている事が、奇跡。
出会えた事が、奇跡。
健康で元気でいれることが、奇跡。
悲しんでいるのも、
喜びを知るためのもの。
喜びもまた、奇跡。
だから生を受けてきた事に感謝しないといけないんだね。
もともと高架下にあったのもあって人気は少なかったけど
やはり、ともいうべきか、とうとうクローズしてしまったようだ。
もしかしたら赤字続きだったとして、
よく思えば「いいきっかけだったのかもしれない」ともとれるけどね。
こうやって一箇所、どこかで「悪事」を働くとひょんなことからそれは大きなものとなってある日突然現れるから怖い。
あるあるのこともそうだったよね。
どこまでが演出で、どこまでがやらせ、か。
これはマスコミの倫理観を問うた問題へと発展していったけど
TBSの問題にしてもそうだけど
次から次へと出てくるのは
ユーザーがこの問題に過敏になっているから、というだけではなかろう。
前回、憎しみは憎しみを呼ぶ、と書いたわけだけど
負は負を呼ぶのだ。
なにかの甘い、誘い水。
本当は「負」にヴェールという名前のオブラートをかけただけのものに手を染めるという
「誘惑」
たしかに人間にはさまざまな欲があるし
それはしごく当然ではあるのだけど
憎しみは憎しみを呼ぶ。
長崎市長殺害の犯人というのは以前の恐喝などでもわかるけど
お金という自分の欲のために、ということから
相当前から自らを見失っているわけであって
確かに欲というのは怖いものであるわけだね。
金は人を変えてしまうのも事実だ。
たしかにお金そのものは悪いものではないけど
それについてくる欲がやっかいなものなのだ。
今のスピリチュアルブームでお金をほしがることをやけに正当化しているのが
なんとなく気になって仕方ないのだけど、
あたしにはそちらの思想はどうやら関係なさそうだ。
普通は欲には理性をもってして自らを律するのだけど
それもまたまた難しいものだ。
たとえば甘いもの。
砂糖には依存物質が含まれているので
甘いものが好きな人には
砂糖を含むお菓子とかをこれまで我慢してても
ちょっとだけ...と食べたらもう最後!
自制心がききません(笑
そして鬱も鬱を呼ぶ。
これがいわゆる鬱連鎖だ。
心が健常な人でも鬱ウツな状態の人と接すると
なんとなぁ〜く...な感じになる。
ウツの人間には励ましは禁句。
がんばれだなんていえないわけだ。
そういうとき、どうやって接するべきなのか、とか
なれない人には難しいし、
また、変に相手に期待されてしまうことも、
とくに相手がボーダーの場合なんかは大変だ。
あたしもかつてウツがひどかったし、ボーダーラインだったから
余計に接することの難しさが当事者としてわかる。
考えてみれば
笑顔の人のところには
いつも楽しそうでにぎやかな人のところには
悪いものも吹き飛ばすくらいのエネルギーや強さを感じる。
気づいてみればあたしの身の回りには
そういう「Happy」オーラを身にまとった人が多いかもしれないと思った。
あたしはそういう彼らのオーラをもらっている。
オーラってさ、感情、メンタルを越えた場所、
魂レベルの問題だけど
ちょっとしたことでバランスって崩れてしまうものだから。
人ごみの中にいるとカラダや感情は普通なはずなのに、
なんか疲れた、なんてときは
あんまつかいたくないことばだけど
まさにオーラが疲れている時なのよ。
逆もいえるとあたしは思っていて
楽しかったり、なぜかこの人といると元気が出るって人、いない?
そんなときはその人からいいオーラをもらってる時だよね。
アストラル体やエーテル体の話までは今はしないで
わかりやすくオーラの話でとどめておきます。
そんなわけで、笑う門には福来るとは昔の人がいったけど
本当に言い得て妙だなって思う。
憎しみなどの負の連鎖を断ち切るのはひとつ、
勇気、だよね。
なんの勇気かといえば
赦す勇気。
赦して、受け入れること、
だなんてキリスト教っぽいかもしれないかな。
マザーテレサの言葉だったか
「赦しは最大の復讐」
という言葉があったよね。
ひとつのguilty(罪)を問うとき
not guiltyは必ずしもinnocent、無罪ではないわけだ。
アメリカで32人も銃殺した韓国人の話をきいたとき
アングリ・マーラの話をまず最初に思い出した。
善良なる人々を次々に殺しては、
彼らの指をとって
それを首飾りとしていたというブッダの話。
人は救いを求め、
癒しを求め、
赦しを請う生き物なのだろうか。
生まれてきたときから誰かしらに迷惑をかけてきてるわけだし
人はひとりでは決して生きられない。
キリスト教では
人は生まれながらにして罪を背負っているというわけか。
この世の中にはさまざまな宗教があるけど
その多くが赦しや、慈悲、無条件の愛、感謝をテーマにしている。
それだけ「赦す」ことというのは
人間にとっての
「悲しみ」
「苦しみ」
「葛藤」
などから解放される
永遠のテーマなのかもしれない。
今口にしている食べ物も全ての命の根源になっているのだから
やはり健康に感謝は日々しないといけないよね。
叔父や祖父の法事のときなどで
般若心経の紙が渡されて
それを一緒に唱えるわけだけど
般若心経の言葉の中に
「色即是空」
って言葉がある。
この世の全ては空だとする説、しない説はあるが、
あるがままを受け入れ、
一切執着のない空の世界から人々はやってきて
そこへ再び戻りゆく。
何もないところからやってきて、
悲しみだけでない、喜びも含めて
いろいろな「現実」体験をし、やがて帰衣する。
だけどそういったことを経験できるということは
まさにキセキであって
このキセキに、生まれてきたことに感謝をしないといけないんだよね。
人を恨むことは辛い。
人を赦すときっと、少しずつラクになれるはず。
悲しんでいきていくのは辛い。
だけどその分、強く、やさしくなれるはず。
生まれてきたことが、奇跡。
生きている事が、奇跡。
出会えた事が、奇跡。
健康で元気でいれることが、奇跡。
悲しんでいるのも、
喜びを知るためのもの。
喜びもまた、奇跡。
だから生を受けてきた事に感謝しないといけないんだね。
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長崎市長が銃弾に撃たれたニュースが朝からやっている。
どうやら、長崎市と犯人とのトラブルらしいけど
積年の恨みもあるのかな。
憎しみっていう感情はとっても厄介だよね。
誰かを憎んで生きていくって、本当はすごいエネルギー。
犯人は89年にも元市長を恐喝したらしいけど
20年近くも人間的に成長していない人なんだな。
憎しみのエネルギーは誰かを救うことはできない。
ただ、それは増長していくだけ。
誰かを苦しめたり、銃で撃つ勇気があるなら
それを別の勇気に使うべきなのに...
だなんて小学生みたいな発言かな(笑
前向きなライバル心であるならば
その相手に善をもって立ち向かおうとするのだろうけど
憎しみは結局憎しみを誘う。
憎しみは本来なら辛い感情。
世の中から憎悪が消えてなくなればいいのに。
まずは自分から。
自分の中から憎しみが消えてなくなればいいな。
誰かを憎み続けて生きていくなんて
あたしには辛くてできない。
もし憎しみが心にできたとして
どうやって己の心を消していけるかをまず考えるのに。
憎しみのエネルギーがあれば
きっと誰かを救うことができるはずだからね。
いじめとか、これも憎しみの形を変えた一種だよね。
小さい子も苦しんでいるけど
オトナだってとっても苦しいんだよね。
ただその苦しさを見せないだけなんだよね。
なかなか苦しさを誰にも見せることができないと
歯痒さと辛さがしこりになって残ってしまうものだよね。
辛い気持ち。
悲しみや傷ついた心は
その人をいつか成長させるけど
憎しみってなかなかどうにも
人の成長を拒む厄介な存在だよね。
憎しみのない、苦しみのない、
そんな世界は確かにユートピアだし机上の空論だし
理想論。
だけど希望を捨てることなく生きていくのが
何よりも大切なんだよね。
わかってる。
だけどなかなかできないよね。
パンドラの箱をたとえ開けてしまっても
最後には希望が残っているんだ、
そう信じたい、
祈るしかできない世の中になっちゃったのかもしれないね。
どうやら、長崎市と犯人とのトラブルらしいけど
積年の恨みもあるのかな。
憎しみっていう感情はとっても厄介だよね。
誰かを憎んで生きていくって、本当はすごいエネルギー。
犯人は89年にも元市長を恐喝したらしいけど
20年近くも人間的に成長していない人なんだな。
憎しみのエネルギーは誰かを救うことはできない。
ただ、それは増長していくだけ。
誰かを苦しめたり、銃で撃つ勇気があるなら
それを別の勇気に使うべきなのに...
だなんて小学生みたいな発言かな(笑
前向きなライバル心であるならば
その相手に善をもって立ち向かおうとするのだろうけど
憎しみは結局憎しみを誘う。
憎しみは本来なら辛い感情。
世の中から憎悪が消えてなくなればいいのに。
まずは自分から。
自分の中から憎しみが消えてなくなればいいな。
誰かを憎み続けて生きていくなんて
あたしには辛くてできない。
もし憎しみが心にできたとして
どうやって己の心を消していけるかをまず考えるのに。
憎しみのエネルギーがあれば
きっと誰かを救うことができるはずだからね。
いじめとか、これも憎しみの形を変えた一種だよね。
小さい子も苦しんでいるけど
オトナだってとっても苦しいんだよね。
ただその苦しさを見せないだけなんだよね。
なかなか苦しさを誰にも見せることができないと
歯痒さと辛さがしこりになって残ってしまうものだよね。
辛い気持ち。
悲しみや傷ついた心は
その人をいつか成長させるけど
憎しみってなかなかどうにも
人の成長を拒む厄介な存在だよね。
憎しみのない、苦しみのない、
そんな世界は確かにユートピアだし机上の空論だし
理想論。
だけど希望を捨てることなく生きていくのが
何よりも大切なんだよね。
わかってる。
だけどなかなかできないよね。
パンドラの箱をたとえ開けてしまっても
最後には希望が残っているんだ、
そう信じたい、
祈るしかできない世の中になっちゃったのかもしれないね。
ヒーリングの世界に入って早くも4年が過ぎました。
ヒーリングの世界に足を踏み入れたのは
自分のメンタル面をなんとかして癒したかったのが何よりも先にありました。
あのとき、当時のある人と、あんなふうに別れたりしなければ
皮肉にも今のこういう自分はいなかったと思います(苦笑
確かに別れは苦い経験だったけど
別れなければあたしは成長することはできなかったのだって
今でならそうしっかり思うまでになりました。
4年前、変わらなきゃって思った。
自分のために自分を変えていかないとってね。
誰かの幸せを祈るには
まずは自分が幸せにならなければ
あたしは、それはムリだって考える人なんです。
よく「隣人を愛しなさい」とか
「自分を愛するように他人を愛しなさい」
というけど、
愛情ってどんなものか、
わかっていなければ誰も愛することなんてできない。
そして、あたしも、どんなものなのかなんて
わからない人のひとりでした。
自分自身をHugしてあげて
ちゃんと受け止めて、受け入れてあげない限り
「誰か」をいつまでたっても受け入れることなんてできません。
それができてからこその、
自分を愛するように他人を愛しなさい、なわけなんですよね。
今小さい子が虐待っていう事件が多いけど
そういうことをする親はたいてい
親に愛されることがなかったのだって思います。
自分を愛することがないまま子供を生んだために
本来子供に注ぐべきはずの愛情を思うように注げないのではないかって思うのです。
幸せも同じって思います。
最近よくみかけるのが
「幸せになってお金持ちになる方法★」
みたいな女性向けのスピリチュアル本。
お金とからめてあることが最近特に多い気がします。
経済が安定したから、っていうことなのでしょうかね。
自分がまず幸せになってはじめて
誰かを幸せにできるのではないかって思います。
そのためには自分を癒すことがやはり大切なんだろうな
そういうふうに4年前のあたしは感じたのです。
ヒーリングをすすめていくと
そこにはさまざまなものが絡んでくるようになってきた。
やっぱし、ココロとカラダは密接だなってことがとてもよくわかってきました。
今◎◎専門外来って多いじゃない?
そういうふうに西洋医学は結局
どんどんスペシャリストを作り出していく。
それを否定するわけではないのだけど
一方
「木を見て森を見ず」
っていうふうにも捉えられるのではないかなと思うようになってきました。
頭痛の原因とかって特にさまざまで
それこそ本当に難しい症状のものから
ホルモンバランスの崩れとか
血行不良だったりとか
目から来ていたとか
精神的なものだとか......
トータルにみていかなければ解決しにくいものが多いって思うようになったのですよね。
それには確かにセカンドオピニオンをたてることも必要だし、
逆に西洋医学以外の視点からみたりとか
さまざまなことをココロも含めてトータルにとらえる必要もあるわけですよね。
あたしはかつてウツがひどくて1日60錠もの精神安定剤と睡眠薬に頼っていました。
そのときのほうが今よりもカラダが弱くて
風邪も年中ひいて治りませんでした。
ココロの問題は余計に、精神安定剤だけじゃ治らないって
そんなふうに思えるようになったのは
今は安定剤どころか風邪さえひかず、
クスリをまったく飲まなくなった自分が証明しています。
ひどいときのあたしをしっている友人も多いです。
そのように、かつては大量の精神安定剤に頼り睡眠薬に頼り、
各種抗生物質に頼っていかないと生きていけなかった。
かつては自分ひとりが生きるのでさえ精一杯だったのにも関わらず
今では祖母の介護っていう
誰かの命をサポートすることをしています。
もちろん自分のバランスが崩れたときは祖母も体調が不思議と悪くなってしまいます。
だから自分をしっかりケアしていかないと本当にダメなんですよね。
これまで自己管理だなんてヒトゴトだったのに(笑
祖母も、現在では入院する前よりもクスリが少なくなってきています。
持病のクスリも食事指導なんかで改善していって
昔より服薬の量が減ってきました。
以前は祖母もトランキライザーや、睡眠薬もつい先日まで服用していました。
眠れないとき、かつてあたしは
アロマやハーブを手当たり次第やったことはあるけど
知識はなかったので
量は多いのに「きかないじゃん、アロマなんて」
というかんじでした。
だけど、フィトセラピーの勉強をしていき
今ではポイントをおさえた使い方ができるようになってきたようです。
祖母も1年前までは「クスリづけ」でした。
確かに介護って大変です。
夜もおこされることは少なくありません。
だからクスリを用いて寝かせてしまって、
それでもきかなければ血中時間の長い睡眠薬を追加ってこともできます。
だけどそれっておかしいと思ってくるようになったのです。
そう、かつての大量トランキライザー漬けのあたしみたいなものです。
しかも、祖母は80歳を超えているわけで
少なくともあたしよりか
クスリをデトックスする器官である
肝臓や腎臓などの脾臓の機能は衰えているわけであって
投薬が多いと内臓に負担がかかってきます。
クスリを飲ませて、その器官にはとりあえずきいていても
結果的に全体の体調を弱く(負担かける意味)していることもありえます。
ひとつの症状を抑えるのに、
たとえば鎮痛剤があって、胃に負担がかかるからといって
胃薬を出す、っていうかんじでふえてくのは
現代医療の典型ですよね。
だけど、それっておかしいって思うようになってきたんです。
本末転倒って気がしてくるんですよ。
祖母が眠れないときは
あったかいミルクを飲ませたりしたあと
手や足をお湯で寝る前にあたためてあげて
お湯の中には寝つきをよくするアロマをいれる、
そのとき軽くマッサージをしてあげます。
アロマをやっていると「タッチング論」というのが必ずでてくるのですが
特に介護の場ではこれが必要なわけです。
どうしても眠れないときはハーブで対処。
バレリアンとセントジョーンズワートを飲ませたら
それ以来よく眠ってくれます。
それでもダメならホップとパッションフラワーを加えればカンペキ(笑
お年よりの睡眠は長く寝ているようで寝ていないことが多くて
質の悪い睡眠が多くなってしまうので
その「質」をよくするためにはどうしたらいいのか
いろいろ調べたのはあります。
セントジョーンズワートも万人がOKなわけでなくて
たとえば強心剤を服用してる人や気管支拡張剤を服用している人はききめが弱くなるので気をつけないといけません。
睡眠薬はふらつき、めまいが翌朝午前中まで残ることがあり、
それは精神安定剤も同じこと。
これによって夜中や朝のトイレとかで転んで骨折ってパターンが実際多いのです。
これまでの祖母の骨折した時間は考えたら午前中が多いと思ったので
精神安定剤をフラワーエッセンスに切り替えていって
ようやく睡眠薬もはずせるようになり、
しかもこれまで以上に眠れるようになったといいます。
精神状態が安定してきたことで睡眠の質も向上したのかなと思っています。
アンチエイジングなんかもいろいろと、
もう3年くらいは調べていますが
「老い」っていうのは生物学的にみれば仕方ないことであって
カラダの各器官は人生のプロセスとしてどうしたって衰えていくものです。
だけどその衰えは個人差があるわけだから
少しでもココロも健康に生きることが大切ってわけですよね。
だけど注意しなければいけないのが
「老化=不健康」ではない
ということだって思うんです。
祖母は骨折したということから寝たきりになりましたが
骨折の原因は骨粗しょう症。
かといってカルシウムだけをとればいいのかってわけではないんですよね。
ほどよい運動が必要。
ビタミンDや日差しも必要。
アサイチの日差しは睡眠にも必要なんですよね。
(サーカディアンリズムを整えるために)
骨を育てるには、そのほかにたんぱく質も必要、
...というふうに結局バランスよく生活していくことが
トータルでQOL(Quority of Life)をあげていくコツ
ではないかと祖母を見ていて学びました。
情報番組で何かをとれば何かがよくなるといって
そればかり極端にとる人が意外といるけど
カルシウムひとつみてもさっきいったことのようなバランスが必要。
もっといえば骨にいいからといっても
カルシウムが多すぎると病気になるわけです。
骨を育てるにはマグネシウムとのバランスが必要だし
ある程度のリンも必要。
リン酸はよく食品添加物としてコンビニのおかずに入っているけど
リンばかりとっていても逆に骨を溶かしてしまうなど
本当生活においてバランスが大切なのですよね。
カラダのバランスはココロのバランスでもあります。
何か病気やケガをして病院にいくことではじめて
「健康っていうのは幸せなことだったんだ」
と気づくように
ココロとカラダのバランスがトータルにとれることは
とっても大切(だけど自分のリズムになるまでは難しい)なのだよね。
ヒーリングの世界に足を踏み入れたのは
自分のメンタル面をなんとかして癒したかったのが何よりも先にありました。
あのとき、当時のある人と、あんなふうに別れたりしなければ
皮肉にも今のこういう自分はいなかったと思います(苦笑
確かに別れは苦い経験だったけど
別れなければあたしは成長することはできなかったのだって
今でならそうしっかり思うまでになりました。
4年前、変わらなきゃって思った。
自分のために自分を変えていかないとってね。
誰かの幸せを祈るには
まずは自分が幸せにならなければ
あたしは、それはムリだって考える人なんです。
よく「隣人を愛しなさい」とか
「自分を愛するように他人を愛しなさい」
というけど、
愛情ってどんなものか、
わかっていなければ誰も愛することなんてできない。
そして、あたしも、どんなものなのかなんて
わからない人のひとりでした。
自分自身をHugしてあげて
ちゃんと受け止めて、受け入れてあげない限り
「誰か」をいつまでたっても受け入れることなんてできません。
それができてからこその、
自分を愛するように他人を愛しなさい、なわけなんですよね。
今小さい子が虐待っていう事件が多いけど
そういうことをする親はたいてい
親に愛されることがなかったのだって思います。
自分を愛することがないまま子供を生んだために
本来子供に注ぐべきはずの愛情を思うように注げないのではないかって思うのです。
幸せも同じって思います。
最近よくみかけるのが
「幸せになってお金持ちになる方法★」
みたいな女性向けのスピリチュアル本。
お金とからめてあることが最近特に多い気がします。
経済が安定したから、っていうことなのでしょうかね。
自分がまず幸せになってはじめて
誰かを幸せにできるのではないかって思います。
そのためには自分を癒すことがやはり大切なんだろうな
そういうふうに4年前のあたしは感じたのです。
ヒーリングをすすめていくと
そこにはさまざまなものが絡んでくるようになってきた。
やっぱし、ココロとカラダは密接だなってことがとてもよくわかってきました。
今◎◎専門外来って多いじゃない?
そういうふうに西洋医学は結局
どんどんスペシャリストを作り出していく。
それを否定するわけではないのだけど
一方
「木を見て森を見ず」
っていうふうにも捉えられるのではないかなと思うようになってきました。
頭痛の原因とかって特にさまざまで
それこそ本当に難しい症状のものから
ホルモンバランスの崩れとか
血行不良だったりとか
目から来ていたとか
精神的なものだとか......
トータルにみていかなければ解決しにくいものが多いって思うようになったのですよね。
それには確かにセカンドオピニオンをたてることも必要だし、
逆に西洋医学以外の視点からみたりとか
さまざまなことをココロも含めてトータルにとらえる必要もあるわけですよね。
あたしはかつてウツがひどくて1日60錠もの精神安定剤と睡眠薬に頼っていました。
そのときのほうが今よりもカラダが弱くて
風邪も年中ひいて治りませんでした。
ココロの問題は余計に、精神安定剤だけじゃ治らないって
そんなふうに思えるようになったのは
今は安定剤どころか風邪さえひかず、
クスリをまったく飲まなくなった自分が証明しています。
ひどいときのあたしをしっている友人も多いです。
そのように、かつては大量の精神安定剤に頼り睡眠薬に頼り、
各種抗生物質に頼っていかないと生きていけなかった。
かつては自分ひとりが生きるのでさえ精一杯だったのにも関わらず
今では祖母の介護っていう
誰かの命をサポートすることをしています。
もちろん自分のバランスが崩れたときは祖母も体調が不思議と悪くなってしまいます。
だから自分をしっかりケアしていかないと本当にダメなんですよね。
これまで自己管理だなんてヒトゴトだったのに(笑
祖母も、現在では入院する前よりもクスリが少なくなってきています。
持病のクスリも食事指導なんかで改善していって
昔より服薬の量が減ってきました。
以前は祖母もトランキライザーや、睡眠薬もつい先日まで服用していました。
眠れないとき、かつてあたしは
アロマやハーブを手当たり次第やったことはあるけど
知識はなかったので
量は多いのに「きかないじゃん、アロマなんて」
というかんじでした。
だけど、フィトセラピーの勉強をしていき
今ではポイントをおさえた使い方ができるようになってきたようです。
祖母も1年前までは「クスリづけ」でした。
確かに介護って大変です。
夜もおこされることは少なくありません。
だからクスリを用いて寝かせてしまって、
それでもきかなければ血中時間の長い睡眠薬を追加ってこともできます。
だけどそれっておかしいと思ってくるようになったのです。
そう、かつての大量トランキライザー漬けのあたしみたいなものです。
しかも、祖母は80歳を超えているわけで
少なくともあたしよりか
クスリをデトックスする器官である
肝臓や腎臓などの脾臓の機能は衰えているわけであって
投薬が多いと内臓に負担がかかってきます。
クスリを飲ませて、その器官にはとりあえずきいていても
結果的に全体の体調を弱く(負担かける意味)していることもありえます。
ひとつの症状を抑えるのに、
たとえば鎮痛剤があって、胃に負担がかかるからといって
胃薬を出す、っていうかんじでふえてくのは
現代医療の典型ですよね。
だけど、それっておかしいって思うようになってきたんです。
本末転倒って気がしてくるんですよ。
祖母が眠れないときは
あったかいミルクを飲ませたりしたあと
手や足をお湯で寝る前にあたためてあげて
お湯の中には寝つきをよくするアロマをいれる、
そのとき軽くマッサージをしてあげます。
アロマをやっていると「タッチング論」というのが必ずでてくるのですが
特に介護の場ではこれが必要なわけです。
どうしても眠れないときはハーブで対処。
バレリアンとセントジョーンズワートを飲ませたら
それ以来よく眠ってくれます。
それでもダメならホップとパッションフラワーを加えればカンペキ(笑
お年よりの睡眠は長く寝ているようで寝ていないことが多くて
質の悪い睡眠が多くなってしまうので
その「質」をよくするためにはどうしたらいいのか
いろいろ調べたのはあります。
セントジョーンズワートも万人がOKなわけでなくて
たとえば強心剤を服用してる人や気管支拡張剤を服用している人はききめが弱くなるので気をつけないといけません。
睡眠薬はふらつき、めまいが翌朝午前中まで残ることがあり、
それは精神安定剤も同じこと。
これによって夜中や朝のトイレとかで転んで骨折ってパターンが実際多いのです。
これまでの祖母の骨折した時間は考えたら午前中が多いと思ったので
精神安定剤をフラワーエッセンスに切り替えていって
ようやく睡眠薬もはずせるようになり、
しかもこれまで以上に眠れるようになったといいます。
精神状態が安定してきたことで睡眠の質も向上したのかなと思っています。
アンチエイジングなんかもいろいろと、
もう3年くらいは調べていますが
「老い」っていうのは生物学的にみれば仕方ないことであって
カラダの各器官は人生のプロセスとしてどうしたって衰えていくものです。
だけどその衰えは個人差があるわけだから
少しでもココロも健康に生きることが大切ってわけですよね。
だけど注意しなければいけないのが
「老化=不健康」ではない
ということだって思うんです。
祖母は骨折したということから寝たきりになりましたが
骨折の原因は骨粗しょう症。
かといってカルシウムだけをとればいいのかってわけではないんですよね。
ほどよい運動が必要。
ビタミンDや日差しも必要。
アサイチの日差しは睡眠にも必要なんですよね。
(サーカディアンリズムを整えるために)
骨を育てるには、そのほかにたんぱく質も必要、
...というふうに結局バランスよく生活していくことが
トータルでQOL(Quority of Life)をあげていくコツ
ではないかと祖母を見ていて学びました。
情報番組で何かをとれば何かがよくなるといって
そればかり極端にとる人が意外といるけど
カルシウムひとつみてもさっきいったことのようなバランスが必要。
もっといえば骨にいいからといっても
カルシウムが多すぎると病気になるわけです。
骨を育てるにはマグネシウムとのバランスが必要だし
ある程度のリンも必要。
リン酸はよく食品添加物としてコンビニのおかずに入っているけど
リンばかりとっていても逆に骨を溶かしてしまうなど
本当生活においてバランスが大切なのですよね。
カラダのバランスはココロのバランスでもあります。
何か病気やケガをして病院にいくことではじめて
「健康っていうのは幸せなことだったんだ」
と気づくように
ココロとカラダのバランスがトータルにとれることは
とっても大切(だけど自分のリズムになるまでは難しい)なのだよね。
今日のタロットのカードをひくと
III The Empress(女帝)の正位置でした。
このカードは愛情が最高に達した状態をさしたり
結婚や妊娠、母性や豊かさとかを示すカードです。
このカードがでたついでにちょっとお話。
タロットの女帝は3のカードなんですが
2のカードは女教皇。
女教皇は宇宙や自然の隠された秘密をあらわし
女帝は豊かな自然や豊穣をあらわします。
ギリシャ神話になぞらえて
「ヴェールを脱いだイシス」ともいわれるそうです。
イシスといえばオシリス神話なのですが
実はあたしの今の「レイア」というのは
ギリシャ神話からとったものなんですよね。
説明がめんどくさいので
「マンガかなんかで見たので」
って説明してることが多いのですけど。
よく「スターウォーズ?」ときかれますが
あたし、スターウォーズって1つも見たことないんですよ。
スターウォーズからだと勘違いした人たちから
「レイア姫」といわれるようになってから
めんどくさいからなのか「姫」ってよばれることが多くなったのですが
mixiでそれを名乗っていたら
見ず知らずのどっかのオンナからいきなりメッセがきて
「自分で姫っていうな」
ってのがきましたねwwwwww
しかもID変えて何度もww
しかもしつこく何度も。
ていうか、アンタ誰だか面識ないしw
ここをそれでも見てるのでしょうか。
それはいいとして
レイアという名前はあたしにとって奥が深いのです。
神話からなのですが
そもそも神話を知る理由がフロイトについて調べていたことに発端があります(いわゆるエディプスコンプレックス)
このレイアというのはクロノス、っていう時間の神がいて
クロノスの妻になります。
クロノスっていうのはつまり惑星でいえば土星です。
あたしの星座(山羊座)の守護星は土星なのですよね。
クロノスの母親はガイアです。
何もない混沌とした世界にガイア(大地)が生まれ、
同時期にタルタロス(地底)やエロス(愛)などが生まれました。
ガイアの末っ子にあたるのがクロノス君。
レイアのダンナにあたる人ですね(笑
クロノス君は母のガイアにいわれて
「あんたの父親を殺して!」
と頼まれて殺してしまうわけです。
そうやってクロノスは覇権を握りますが
「オマエが父親を殺したように子供に殺されるであろう」
といわれてしまい、
レイアとクロノスとの子供たちを
何を怯えたのか、みんな飲み込んでしまいます。
レイアは悲しんで次に生んだ子供を
「クロノスさん、これが次の子供よ」
といって石をわたします。
クロノス君は迷わず石を飲み込んでしまいました。
(ポセイドン(海王星:ネプチューン)、デメテル、ヘスティア(Vesta)、ハデス(冥王星:プルート)が食べられた子供たち。
このときに石を渡したことで食べられずに残った子供が
ゼウス(木星:ジュピター)になります。
そして話が戻りますが、クロノスが父親を釜で切り殺したとき、
その時切り落とした男根を海に投げ入れたんですが
その泡(実は精液)の中から生まれたのがアフロディーテ。
要するに愛の神、金星ですね。
アフロディーテが誕生したときのことは
ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」がそうですね。
そしてまた当時、世界で一番キレイとされるわけですが
それはゼウスの妻であるヘラ(Juno⇒June(6月)の語源。結婚の女神)や、アテネよりも美しい!
というのが原因でトロイア戦争がおきます。
ちなみにレイアの子供であるゼウスですが
ゼウスの子供がアルテミスとアポロンなんかがいます。
アルテミス(Diana)とアポロンは双子の姉妹です。
まぁそんなかんじのギリシャ神話があって
そこからとったのがレイア、でした。
ほかの女神は結構知られている名前だけど
レイアってしらないなぁって思って。
ちなみにナルキッサス、いわゆるナルシスト、ですが
これもギリシャ神話からなのですが
このナルシシズムという言葉を作ったのがフロイトです。
こんなふうにあたしは
精神医学や心理学を調べていてフロイトにハマり、
フロイトからギリシャ神話を調べだして、
そこから天文とか星占いに夢中になり
タロットにハマったらルーツを調べていって
カバラや錬金術や魔術あたりなんか調べていて
魔術を調べていたらハーブにいきついて
カバラからオーラソーマにいきついて...
というわけで、現在のあたしはハーブやアロマ、オーラソーマっていうヒーリングをやってるんですよ。
だから流れでそうなったわけなんですよね。
よく人から
「ああ、アロマ、はやってるよね」
「ヒーリングブームだからねぇ〜」
なんていわれるとそういうバックグラウンドがあるので
実は相当カチンときてます(^ω^#)
なんかすぐ流行にのるような軽い人間て思われるのが嫌でねw
流行を否定してるわけでなくて
「ルーツが自分の中にはあるのに!!」
てかんじで。
...って思いつつも、
説明が↑のようにまどろっこしいのでやめてるんですけどね〜
あたしの趣味がいろいろだよねっていわれることが多いのだけど
一見節操ないようにみえて
根本ではつながっているのですよw
興味のある人は
ホメロスの叙事詩やヘシオドスの詩を読んでみたらどうでしょうw
オウィディウス(アウグストゥス時代)が編さんした長い神話集なんかもね。
それにしても考えてみたらギリシャ神話ってスゴイ話すナぁw
III The Empress(女帝)の正位置でした。
このカードは愛情が最高に達した状態をさしたり
結婚や妊娠、母性や豊かさとかを示すカードです。
このカードがでたついでにちょっとお話。
タロットの女帝は3のカードなんですが
2のカードは女教皇。
女教皇は宇宙や自然の隠された秘密をあらわし
女帝は豊かな自然や豊穣をあらわします。
ギリシャ神話になぞらえて
「ヴェールを脱いだイシス」ともいわれるそうです。
イシスといえばオシリス神話なのですが
実はあたしの今の「レイア」というのは
ギリシャ神話からとったものなんですよね。
説明がめんどくさいので
「マンガかなんかで見たので」
って説明してることが多いのですけど。
よく「スターウォーズ?」ときかれますが
あたし、スターウォーズって1つも見たことないんですよ。
スターウォーズからだと勘違いした人たちから
「レイア姫」といわれるようになってから
めんどくさいからなのか「姫」ってよばれることが多くなったのですが
mixiでそれを名乗っていたら
見ず知らずのどっかのオンナからいきなりメッセがきて
「自分で姫っていうな」
ってのがきましたねwwwwww
しかもID変えて何度もww
しかもしつこく何度も。
ていうか、アンタ誰だか面識ないしw
ここをそれでも見てるのでしょうか。
それはいいとして
レイアという名前はあたしにとって奥が深いのです。
神話からなのですが
そもそも神話を知る理由がフロイトについて調べていたことに発端があります(いわゆるエディプスコンプレックス)
このレイアというのはクロノス、っていう時間の神がいて
クロノスの妻になります。
クロノスっていうのはつまり惑星でいえば土星です。
あたしの星座(山羊座)の守護星は土星なのですよね。
クロノスの母親はガイアです。
何もない混沌とした世界にガイア(大地)が生まれ、
同時期にタルタロス(地底)やエロス(愛)などが生まれました。
ガイアの末っ子にあたるのがクロノス君。
レイアのダンナにあたる人ですね(笑
クロノス君は母のガイアにいわれて
「あんたの父親を殺して!」
と頼まれて殺してしまうわけです。
そうやってクロノスは覇権を握りますが
「オマエが父親を殺したように子供に殺されるであろう」
といわれてしまい、
レイアとクロノスとの子供たちを
何を怯えたのか、みんな飲み込んでしまいます。
レイアは悲しんで次に生んだ子供を
「クロノスさん、これが次の子供よ」
といって石をわたします。
クロノス君は迷わず石を飲み込んでしまいました。
(ポセイドン(海王星:ネプチューン)、デメテル、ヘスティア(Vesta)、ハデス(冥王星:プルート)が食べられた子供たち。
このときに石を渡したことで食べられずに残った子供が
ゼウス(木星:ジュピター)になります。
そして話が戻りますが、クロノスが父親を釜で切り殺したとき、
その時切り落とした男根を海に投げ入れたんですが
その泡(実は精液)の中から生まれたのがアフロディーテ。
要するに愛の神、金星ですね。
アフロディーテが誕生したときのことは
ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」がそうですね。
そしてまた当時、世界で一番キレイとされるわけですが
それはゼウスの妻であるヘラ(Juno⇒June(6月)の語源。結婚の女神)や、アテネよりも美しい!
というのが原因でトロイア戦争がおきます。
ちなみにレイアの子供であるゼウスですが
ゼウスの子供がアルテミスとアポロンなんかがいます。
アルテミス(Diana)とアポロンは双子の姉妹です。
まぁそんなかんじのギリシャ神話があって
そこからとったのがレイア、でした。
ほかの女神は結構知られている名前だけど
レイアってしらないなぁって思って。
ちなみにナルキッサス、いわゆるナルシスト、ですが
これもギリシャ神話からなのですが
このナルシシズムという言葉を作ったのがフロイトです。
こんなふうにあたしは
精神医学や心理学を調べていてフロイトにハマり、
フロイトからギリシャ神話を調べだして、
そこから天文とか星占いに夢中になり
タロットにハマったらルーツを調べていって
カバラや錬金術や魔術あたりなんか調べていて
魔術を調べていたらハーブにいきついて
カバラからオーラソーマにいきついて...
というわけで、現在のあたしはハーブやアロマ、オーラソーマっていうヒーリングをやってるんですよ。
だから流れでそうなったわけなんですよね。
よく人から
「ああ、アロマ、はやってるよね」
「ヒーリングブームだからねぇ〜」
なんていわれるとそういうバックグラウンドがあるので
実は相当カチンときてます(^ω^#)
なんかすぐ流行にのるような軽い人間て思われるのが嫌でねw
流行を否定してるわけでなくて
「ルーツが自分の中にはあるのに!!」
てかんじで。
...って思いつつも、
説明が↑のようにまどろっこしいのでやめてるんですけどね〜
あたしの趣味がいろいろだよねっていわれることが多いのだけど
一見節操ないようにみえて
根本ではつながっているのですよw
興味のある人は
ホメロスの叙事詩やヘシオドスの詩を読んでみたらどうでしょうw
オウィディウス(アウグストゥス時代)が編さんした長い神話集なんかもね。
それにしても考えてみたらギリシャ神話ってスゴイ話すナぁw
今日、祖母を車イスで連れて病院にいった。
18度くらいに温度があがって春めいた陽気。
実際すんでいる家は住宅密集地ということもあって
日差しは一切ない。
あたしの部屋は2階にあって
夏は西日がさすけど
冬は昼でさえ明かりをつける。
一階なんて電気を消したら昼ですら何も見えない。
要するに東京の中の密集地に住む以上
空を仰ぐことは家からは不可能。
神奈川の実家に帰ったときですら
空が広く高く感じるくらいに違う。
祖母を連れて何度も以前は散歩にいっていた。
去年の年末から寝たきりになっていたのだけど
ようやく歩くリハビリをしはじめた。
昼間に祖母を連れて車椅子で散歩に出かけるたびに
どこかしらでベビーカーをひいた母親の姿を目にする。
それは日常的な光景かもしれない。
だけど、あたしはすごく微妙な気持ちになる。
なんともいえない気持ちになる。
モチロン祖母が普通に歩けていたときは
そんなこと意識すらしなかった。
祖母が車イスになってはじめて、
意識するようになったわけだ。
以前祖母がしっかり一人歩けていたとき
小学生の息子さんをもつ女性の友人のところに何度か遊びにいったことがあった。
祖母の話をすると彼女はよくこういった。
「れいあちゃん、子育てしてるみたいだね」
今それがますます「リアル」となって認識されるようになってきたわけだ。
祖母は少し歩けるように回復すると
自信がつくのか、ひとりで動こうとする。
他人からみればバランスはもちろん悪いので
一人ではさすがに歩けないのに歩けると思ってしまうようだ。
とにかくなんどいっても祖母は一人で動こうとするので
かといってコドモと違うのは、
ここでたとえば部屋にカギをかけてしまったら
人によっては「人権」を問題にするかもしれない。
たとえば病院でそれをやってしまうと人権問題になるので
車イスについてるベルトとか、
何度も点滴の管をぬいたりいじってしまう人にはミットをするとか
「拘束」
が管理する上で必要になってくる。
だから病院によっては治療のために拘束してもいいですよという誓約書にサインをさせられる。
そのあたりが相手が子供かお年よりかで違ってくる。
あたしにはコドモがいないからわからないけど
そんなふうに感じた。
ベビーカーをひいているママさんたちは
多くがあたしと同世代なわけだけど、
方や無邪気な赤ちゃんで、
方や高齢のお年よりっていうわけだ。
本当ならばあたしはあなたのようなスタンスにいるはずなのに
そんな気持ちで時々胸がしめつけられそうな気分になる。
かといってノスタルジックな気分に浸るほどヒマもないし
カタルシスを得たいわけでもない。
もちろん祖母にはよくなってもらいたいし、
だけどベビーカーをひく彼女たちは
「未来をつくっている」って思う。
あたしは、
「おばぁちゃん、一生もう歩けないのかな」
って諦めがどこかしら混じる。
そんなこんなの毎日を繰り返すたび
時々、
今あたしがやってることが
いったい何なのか
本気でわからなくなる。
今あたしがいる世界は
現実なのか、バーチャルなのかさえ麻痺してくることもある。
できれば、バーチャルであってほしい。
実はココロの底ではそう願っていたりする。
現実のリアルの世界があって
もうひとつの世界があったとして
時々その亀裂の中に入り込んでいる気分になってしまう。
色のある世界か、
モノクロームの世界、か、でなく、
あたしはきっと、
どちらの世界にも、
生きていないのかもしれない、
気狂いじみた閉塞感、といったらいいのか、
そんな気すらしてしまう時もある。
やるせない気分って、きっと、こんな、なのかなぁ。
コドモの給食費を払わない親がどうとか、
イジメ問題がどう、とか、
教育再生委員会だとか、
親のしつけがどうだとか、
本当いろいろいわれてるけど
誰かに責任転嫁しようと思った時点で
その人(親)はきっと恒久的に誰かしらを責め続けるんだろうなと思う。
きっといつも誰かの悪口をいうタイプって
そういう人なのかなって思ったりもする。
いじめ問題にもいろんなパターンがあるだろうから
一概にはなんともいえないけど
いじめを苦にして自殺、
というのは、
もしかしたらおかしいのは色の違う自分一人でなくて
まわり全員こそクレージーかもしれない、
あたしならそう考えるだろうな(笑
たとえば10人いる中で一人だけ違う意見をもっている人は
それが間違いだとあたしは思わないのだけど
多くの人は一人だけ違う意見を持つ人を
誰か説得力のある弁の立つ「都合のいい人」を筆頭にあとにつこうとする。
そこに正解がなかったにしてもね。
まぁその最たる例が政治家の政党だったりするわけだが(笑
「多く」に交わろうとしたいがために
自分を押し殺して、
世間体を常に気にしながら生きていくひとたちって
慣れれば生きやすいのかもしれないけど、
少なくともあたしには生き難いんだよね。
そういうのを「自由奔放だね」っていってくる人もいるのだけど
最低限のモラルだのルールは守っているつもりだし、
自由奔放とはまた違うと思うのだけど。
そもそも自由っていうのはいつも
「責任」と隣り合わせだから
自分に責任がとれない人間ならば自由は望まないほうがいいとあたしは思うけどね。
学生のときは制限だらけだったからこそ自由を望んだわけだけど
制限があったほうが本当はラクな人って多いはず。
*
あたしはかつていじめにあいそうだったときがあったけど
「この人たちかわいそうだな」って
逆にあたしが思い切り相手を卑下したことを思い出しました。
「コソコソしてないで直接あたしに意見しな!」
って逆にこっちからケンカ売ったんだけどね(笑
イジメられて悩む子っていうのはそういうことがいえなくて
本当はみんなと仲良くなりたい子なんだって思う。
少なくともあたしみたいに
「あんたたちみたいな人間と一緒にすんな!」
ってタイプでは少なくともないからね(汗
いじめるほうがきっと病んでいる気がするわけだけど
本当集団心理ってわからないもので
いじめるほうがいつのまにかいじめられるスタンスにいたりしてね。
いじめられたことで一度でもココロが疲れてしまうと
ココロに免疫がなくなっちゃって
戦おうとする気力がなくなるんだろうね。
中学校のときの数学の授業で
あたしは「一般的」でない公式を用いないやり方で答えを出したことがあって、
答えの数字そのものはあっていたのだけど
そのプロセスが違ったためにバツをつけられたことがあって
先生にものすごく反発したことがあった。
答えだけがなまじっかあっていたので
正解した誰かのカンニングをしたのではないかとすらいわれた。
これは正直ものすごくプライドが傷ついたことだった。
それ以来、国語にしても何にしても
答えがひとつしかないってことに
常にギモンを持ち続けた学生時代を終えた。
そんなこんなだったから
学歴や肩書きだなんてあってないような一種の記号みたいなもんだよな
なんて思ったりしていきてきた。
自分では個性だとこれまで思っていたものが
いつのまにか「協調性のない子」に変わっていたことにギモンを感じ続けてた。
協調性のない人をわがままと呼ぶ人もいるだろうけど
あたしはそれは違うと10代から思ってたし
協調性のなさと個性もまた違うと思ってるのに。
何かひとつの大きな見えない枠にいれられて
群れからはぐれた人は
「協調性のないわがままな子」
としてあつかうようなかんじがしていて、
それならばそんな枠、最初から入りたくなんてない
っていう気持ちが強かったからこそきっと
イジメの対象になりそうだったときも自分を通し続けられたんだって思う。
でも、対外的な人間関係をどうこういうよりか
基本的な人間関係というのは家族関係。
威圧的な親は子供をオドオドさせてしまったり
うちは奔放にさせておく主義だといいつつ
責任をまったくとれない親がいたりするわけで。
そういうのって向き合ってないなってすごく思う。
そして、あたしも
両親から逃げることばかり考えていたうちの一人だったし。
祖母がこうして車椅子にならなかったら
もしかしたらうちの家族は
一生バラバラなままでいたかもしれない。
かといって祖母が要介護になっても相変わらずバラバラではあるけどw
今目の前でおきている事象。
あたしに対して投げかけてくるさまざまな疑問。
それは想像もできないくらいに大きすぎて
時々それに圧倒されて気持ちが押しつぶされてしまう。
それは「責任」っていうオブラートみたいなもので
包まれているのだけど。
これまで当たり前なはずだった「歩くこと」
要するに「これまでできていたこと」がイキナリできなくなってしまうことが老化なのかもしれないな
って思うようになってきた。
機能しなくなることももちろんショックだろうけど
それ以上に精神的にショックであるようだ。
要するにココロにきてしまう。
表情をみていてすごく感じるのは
これまでのプライドみたいな何かがズタズタになっていくかのようだ。
傷ついてしまったプライドが自分を守ろうと
ココロがどんどん堅くなっていくのが傍目でわかってくる。
老化の一番の要因はきっとココロの固さだって思う。
ココロをやわらかくするには愛情が一番大切なんだなと本当に思うようになった。
それはあくまでも「同情」とは別物だから
時に厳しいのだけど、
厳しくしても愛情をもって接すればそれに応えてくれる。
太陽が目に見える愛情だとしたら
風雨が叱る愛情だって思うからね。
人間て失敗しないと学ばないし育たないように
甘い愛情だけでは育っていかないような気がするから。
叱ることはそこに愛情や思いやりがない限りできないはず。
怒ることと叱ることの意味は至って単純だって思う。
怒ることは表面的な感情論がメインだろうし、
叱る、には何かしらの理由が確実にあるはずだし。
最近しかれる大人がいない、
そういうふうにいうけど
そのあたしの理論からしたら
オトナそのものに今
愛情がないのじゃないかなって思ったりする。
「今のコドモは自分のことしか考えない」
ってのもよくきくけど
それはバックグラウンドに自分のことしか考えない親がいるわけだろうし、
基本的な人間関係はやっぱ母子関係なんだろうなって思う。
そんなふうに、たかが介護なんだけど
子育てのこと、いじめのこと、アンチエイジング...
本当にいろんなことを考えたりするようになった。
今のような状況をこれまでならば不幸だとかって思っていたのだろうな。
あたしの考え方を根本から変えてくれた
さまざまな人との出会いや事柄に感謝したいです。
18度くらいに温度があがって春めいた陽気。
実際すんでいる家は住宅密集地ということもあって
日差しは一切ない。
あたしの部屋は2階にあって
夏は西日がさすけど
冬は昼でさえ明かりをつける。
一階なんて電気を消したら昼ですら何も見えない。
要するに東京の中の密集地に住む以上
空を仰ぐことは家からは不可能。
神奈川の実家に帰ったときですら
空が広く高く感じるくらいに違う。
祖母を連れて何度も以前は散歩にいっていた。
去年の年末から寝たきりになっていたのだけど
ようやく歩くリハビリをしはじめた。
昼間に祖母を連れて車椅子で散歩に出かけるたびに
どこかしらでベビーカーをひいた母親の姿を目にする。
それは日常的な光景かもしれない。
だけど、あたしはすごく微妙な気持ちになる。
なんともいえない気持ちになる。
モチロン祖母が普通に歩けていたときは
そんなこと意識すらしなかった。
祖母が車イスになってはじめて、
意識するようになったわけだ。
以前祖母がしっかり一人歩けていたとき
小学生の息子さんをもつ女性の友人のところに何度か遊びにいったことがあった。
祖母の話をすると彼女はよくこういった。
「れいあちゃん、子育てしてるみたいだね」
今それがますます「リアル」となって認識されるようになってきたわけだ。
祖母は少し歩けるように回復すると
自信がつくのか、ひとりで動こうとする。
他人からみればバランスはもちろん悪いので
一人ではさすがに歩けないのに歩けると思ってしまうようだ。
とにかくなんどいっても祖母は一人で動こうとするので
かといってコドモと違うのは、
ここでたとえば部屋にカギをかけてしまったら
人によっては「人権」を問題にするかもしれない。
たとえば病院でそれをやってしまうと人権問題になるので
車イスについてるベルトとか、
何度も点滴の管をぬいたりいじってしまう人にはミットをするとか
「拘束」
が管理する上で必要になってくる。
だから病院によっては治療のために拘束してもいいですよという誓約書にサインをさせられる。
そのあたりが相手が子供かお年よりかで違ってくる。
あたしにはコドモがいないからわからないけど
そんなふうに感じた。
ベビーカーをひいているママさんたちは
多くがあたしと同世代なわけだけど、
方や無邪気な赤ちゃんで、
方や高齢のお年よりっていうわけだ。
本当ならばあたしはあなたのようなスタンスにいるはずなのに
そんな気持ちで時々胸がしめつけられそうな気分になる。
かといってノスタルジックな気分に浸るほどヒマもないし
カタルシスを得たいわけでもない。
もちろん祖母にはよくなってもらいたいし、
だけどベビーカーをひく彼女たちは
「未来をつくっている」って思う。
あたしは、
「おばぁちゃん、一生もう歩けないのかな」
って諦めがどこかしら混じる。
そんなこんなの毎日を繰り返すたび
時々、
今あたしがやってることが
いったい何なのか
本気でわからなくなる。
今あたしがいる世界は
現実なのか、バーチャルなのかさえ麻痺してくることもある。
できれば、バーチャルであってほしい。
実はココロの底ではそう願っていたりする。
現実のリアルの世界があって
もうひとつの世界があったとして
時々その亀裂の中に入り込んでいる気分になってしまう。
色のある世界か、
モノクロームの世界、か、でなく、
あたしはきっと、
どちらの世界にも、
生きていないのかもしれない、
気狂いじみた閉塞感、といったらいいのか、
そんな気すらしてしまう時もある。
やるせない気分って、きっと、こんな、なのかなぁ。
コドモの給食費を払わない親がどうとか、
イジメ問題がどう、とか、
教育再生委員会だとか、
親のしつけがどうだとか、
本当いろいろいわれてるけど
誰かに責任転嫁しようと思った時点で
その人(親)はきっと恒久的に誰かしらを責め続けるんだろうなと思う。
きっといつも誰かの悪口をいうタイプって
そういう人なのかなって思ったりもする。
いじめ問題にもいろんなパターンがあるだろうから
一概にはなんともいえないけど
いじめを苦にして自殺、
というのは、
もしかしたらおかしいのは色の違う自分一人でなくて
まわり全員こそクレージーかもしれない、
あたしならそう考えるだろうな(笑
たとえば10人いる中で一人だけ違う意見をもっている人は
それが間違いだとあたしは思わないのだけど
多くの人は一人だけ違う意見を持つ人を
誰か説得力のある弁の立つ「都合のいい人」を筆頭にあとにつこうとする。
そこに正解がなかったにしてもね。
まぁその最たる例が政治家の政党だったりするわけだが(笑
「多く」に交わろうとしたいがために
自分を押し殺して、
世間体を常に気にしながら生きていくひとたちって
慣れれば生きやすいのかもしれないけど、
少なくともあたしには生き難いんだよね。
そういうのを「自由奔放だね」っていってくる人もいるのだけど
最低限のモラルだのルールは守っているつもりだし、
自由奔放とはまた違うと思うのだけど。
そもそも自由っていうのはいつも
「責任」と隣り合わせだから
自分に責任がとれない人間ならば自由は望まないほうがいいとあたしは思うけどね。
学生のときは制限だらけだったからこそ自由を望んだわけだけど
制限があったほうが本当はラクな人って多いはず。
*
あたしはかつていじめにあいそうだったときがあったけど
「この人たちかわいそうだな」って
逆にあたしが思い切り相手を卑下したことを思い出しました。
「コソコソしてないで直接あたしに意見しな!」
って逆にこっちからケンカ売ったんだけどね(笑
イジメられて悩む子っていうのはそういうことがいえなくて
本当はみんなと仲良くなりたい子なんだって思う。
少なくともあたしみたいに
「あんたたちみたいな人間と一緒にすんな!」
ってタイプでは少なくともないからね(汗
いじめるほうがきっと病んでいる気がするわけだけど
本当集団心理ってわからないもので
いじめるほうがいつのまにかいじめられるスタンスにいたりしてね。
いじめられたことで一度でもココロが疲れてしまうと
ココロに免疫がなくなっちゃって
戦おうとする気力がなくなるんだろうね。
中学校のときの数学の授業で
あたしは「一般的」でない公式を用いないやり方で答えを出したことがあって、
答えの数字そのものはあっていたのだけど
そのプロセスが違ったためにバツをつけられたことがあって
先生にものすごく反発したことがあった。
答えだけがなまじっかあっていたので
正解した誰かのカンニングをしたのではないかとすらいわれた。
これは正直ものすごくプライドが傷ついたことだった。
それ以来、国語にしても何にしても
答えがひとつしかないってことに
常にギモンを持ち続けた学生時代を終えた。
そんなこんなだったから
学歴や肩書きだなんてあってないような一種の記号みたいなもんだよな
なんて思ったりしていきてきた。
自分では個性だとこれまで思っていたものが
いつのまにか「協調性のない子」に変わっていたことにギモンを感じ続けてた。
協調性のない人をわがままと呼ぶ人もいるだろうけど
あたしはそれは違うと10代から思ってたし
協調性のなさと個性もまた違うと思ってるのに。
何かひとつの大きな見えない枠にいれられて
群れからはぐれた人は
「協調性のないわがままな子」
としてあつかうようなかんじがしていて、
それならばそんな枠、最初から入りたくなんてない
っていう気持ちが強かったからこそきっと
イジメの対象になりそうだったときも自分を通し続けられたんだって思う。
でも、対外的な人間関係をどうこういうよりか
基本的な人間関係というのは家族関係。
威圧的な親は子供をオドオドさせてしまったり
うちは奔放にさせておく主義だといいつつ
責任をまったくとれない親がいたりするわけで。
そういうのって向き合ってないなってすごく思う。
そして、あたしも
両親から逃げることばかり考えていたうちの一人だったし。
祖母がこうして車椅子にならなかったら
もしかしたらうちの家族は
一生バラバラなままでいたかもしれない。
かといって祖母が要介護になっても相変わらずバラバラではあるけどw
今目の前でおきている事象。
あたしに対して投げかけてくるさまざまな疑問。
それは想像もできないくらいに大きすぎて
時々それに圧倒されて気持ちが押しつぶされてしまう。
それは「責任」っていうオブラートみたいなもので
包まれているのだけど。
これまで当たり前なはずだった「歩くこと」
要するに「これまでできていたこと」がイキナリできなくなってしまうことが老化なのかもしれないな
って思うようになってきた。
機能しなくなることももちろんショックだろうけど
それ以上に精神的にショックであるようだ。
要するにココロにきてしまう。
表情をみていてすごく感じるのは
これまでのプライドみたいな何かがズタズタになっていくかのようだ。
傷ついてしまったプライドが自分を守ろうと
ココロがどんどん堅くなっていくのが傍目でわかってくる。
老化の一番の要因はきっとココロの固さだって思う。
ココロをやわらかくするには愛情が一番大切なんだなと本当に思うようになった。
それはあくまでも「同情」とは別物だから
時に厳しいのだけど、
厳しくしても愛情をもって接すればそれに応えてくれる。
太陽が目に見える愛情だとしたら
風雨が叱る愛情だって思うからね。
人間て失敗しないと学ばないし育たないように
甘い愛情だけでは育っていかないような気がするから。
叱ることはそこに愛情や思いやりがない限りできないはず。
怒ることと叱ることの意味は至って単純だって思う。
怒ることは表面的な感情論がメインだろうし、
叱る、には何かしらの理由が確実にあるはずだし。
最近しかれる大人がいない、
そういうふうにいうけど
そのあたしの理論からしたら
オトナそのものに今
愛情がないのじゃないかなって思ったりする。
「今のコドモは自分のことしか考えない」
ってのもよくきくけど
それはバックグラウンドに自分のことしか考えない親がいるわけだろうし、
基本的な人間関係はやっぱ母子関係なんだろうなって思う。
そんなふうに、たかが介護なんだけど
子育てのこと、いじめのこと、アンチエイジング...
本当にいろんなことを考えたりするようになった。
今のような状況をこれまでならば不幸だとかって思っていたのだろうな。
あたしの考え方を根本から変えてくれた
さまざまな人との出会いや事柄に感謝したいです。