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昨日渋谷の歯科医師宅で妹を殺害したという兄の初公判が行われた。
多くの人はこういうだろう。
「同じ家族を殺すだなんておぞましい」
確かに殺すまでしてしまうってどうなのかとは思うけど
やはりそこまでさせる動機が彼にはあったのではないかと思う。
加害者は殺された妹なのだという見方をあたしはする。
そんなことをブログとかに書くと
「人間としてありえない」
っていうふうに思われてしまうんだろうな。
殺人が悪いのは当然あたしも道理でわかっている。
だけどよくある世間話的な内容はここでは書かない。
家族には家族にしかわからない問題があるって思う。
どんなに親しい友達だって家族にしかわからない問題はあるだろう。
この両親はひたすらこの兄をかばおうとしていた。
何かににていないか?
安部首相が松岡大臣を自殺に追い込んだりするという図ににていないか?
妹に傷つけられたという以前にこの殺された子はかなりの問題行動があったようだし、
両親としては問題行動があるからこそ、表にはなるべくそういう
ブラックな部分は出したくないと思うのがフツウじゃないのか。
おそらく傷ついたのは殺害してしまったこの兄だと思う。
そんなことを書くと
「殺人者をかばうのか」
とすぐに短絡的に決め付ける輩が多いけど待ってほしい。
まずこの兄は大学に何度も落ちていたという。
正直、大学に落ちるってそれだけでもかなりのショックだと思わないか?
というか受験して落ちた経験を持つ人なら
ましてや浪人経験があるならわかるだろうと思う。
自分自身をその時点でかなり責めるものだ。
もちろん傷つくだろう。
来年は勉強してうかるぞって思うわけだよね。
そこで自由にやっている妹に
「自分が勉強しないから成績が悪いと言っているけど、本当はわからないね」
というコトバは不必要なはずだ。
この妹に思いやりが少しでもあればこんなコトバはでてこない。
そうでなくとも家庭の環境からいって歯科医師になるためのプレッシャーはかなりのものだ。
そんなときに自由に好き勝手にやっている人間にそんなセリフなんていわれたくなんてないはずだ。
しかしこの兄は妹がアイドルでデビューしたいといってたり
風俗で働いていた?
とかそういうことをかばおうとしたのだろうけど
親には黙っていてもこの兄は知っていて親にそれを言うのはかわいそうだとだまっていたのかもしれない。
妹を思う気持ちと憎む気持ちとの葛藤。
「なら浪人生は人を殺してもいいのか」
という意見など、もちろんあたしは持たないのはいうまでもない。
だけどここであたしが何を一番いいたいのかといえば
「じゃぁ結局妹が悪いのか」
ということではない。
犯罪者心理というか誰かを殺そうとするには
それなりのバックグラウンドがあるはずなのだ。
確かに倫理的に殺人はいけないことくらい誰でもわかっている。
しかしその法律以前に人間的な罪悪を犯すくらいの何か、
これが一番のポイントだろう。
一方日本で問題になっているのは
犯罪被害者に対する国の扱いだ。
そして何より一番の功罪が
こういうプライバシーの侵害を犯すマスコミだと思う。
今回のケースが実に当てはまっていたので
タイミング的に引き合いに出したのだけど
今回、この兄は受験失敗に傷ついていた上、
自由にしている妹にいろいろいわれさらに傷つき、
殺人まで犯してしまった。
首を絞めて殺すというやり方は相当恨みがないとできないやり方だ。
しかし殺した瞬間に被害者は妹のほう、と世間的には摩り替わる。
両親はどうだろう。
自分の娘がなくなっただけでも悲しいだろう。
しかもそれを殺したのがまた自分の息子なわけだから
ショックとしかいいようがないはずだ。
その上、マスコミにより過去の殺された妹のいろんな問題点や
兄の問題点を数限りなく暴かれ
赤の他人であるあたしなんかが関係ない被害者のプライベートまで知ることになる。
おそらくはご両親は職業上にも問題がでてきてしまうだろう。
このほかの兄弟にも当然その影響は及ぶ。
確かに「知る権利」はあるのだろうけど
いくらなんでもここまで他人のプライバシーを
事件とはいえ暴かなくてもいいのではないか。
それにここまで知ってしまう必要性はないはずだ。
あたしたちもマスコミもこういう加害者を裁いたり被害者のプライバシーを詳細に知らなくてもいいはずだ。
マスコミの視聴率の餌食にあった家族という見方をあたしはしてしまう。
もしこの兄が服役したにしても
ただでさえ世間のイメージがマスコミにより洗脳されているわけだから
彼のプレッシャーはかなりのものだろう。
しかしこうした事件においてはいつ公人になるかわからないといっていいと思う。
たとえ突然通り魔的に殺されたにしても
自分のプライベートを洗いざらいマスコミはききだすだろう。
今回のケースはこの妹がグラビアデビューをしようとしたり
風俗で働いていたというものと歯科医師の両親というこのイメージのギャップが
マスコミ的に「ニュースとして目を引く(⇒視聴率がとれる)」
というのはあたしにでもわかる図式だ。
本当こういう暴き方はもうやめないか、といいたい。
裁かれるべきはメディアだろうと。
いまや日本のジャーナリズムはどうなっているのかと思う。
知らなくてもよいことと知るべきだったこと。
このあたりが視聴率という悪魔にマスコミは踊らされてしまい
善悪の判断がついていない気がするのだ。
それよりたとえば知らない間に住民税にしても法案が可決されたりとか
知らないうちに法律が変わっていたとか
そういうことのほうをもっともっと知っていくべきなのではないか。
ゴシップはエンターテイメントだけで十分だ。
新潟の震災から半月たった今、もはやマスコミはすでに見向きもしない。
被災者のテントに隠しマイクをつけていたくらいなのに。
今回の初公判のニュースはネットのニュース関連ではほとんどあまり流れていないが
テレビではあちこちでやっていたので
ネットニュースとマスコミのニュースとの温度差を
ダイレクトにあたしは感じた。
多くの人はこういうだろう。
「同じ家族を殺すだなんておぞましい」
確かに殺すまでしてしまうってどうなのかとは思うけど
やはりそこまでさせる動機が彼にはあったのではないかと思う。
加害者は殺された妹なのだという見方をあたしはする。
そんなことをブログとかに書くと
「人間としてありえない」
っていうふうに思われてしまうんだろうな。
殺人が悪いのは当然あたしも道理でわかっている。
だけどよくある世間話的な内容はここでは書かない。
家族には家族にしかわからない問題があるって思う。
どんなに親しい友達だって家族にしかわからない問題はあるだろう。
この両親はひたすらこの兄をかばおうとしていた。
何かににていないか?
安部首相が松岡大臣を自殺に追い込んだりするという図ににていないか?
妹に傷つけられたという以前にこの殺された子はかなりの問題行動があったようだし、
両親としては問題行動があるからこそ、表にはなるべくそういう
ブラックな部分は出したくないと思うのがフツウじゃないのか。
おそらく傷ついたのは殺害してしまったこの兄だと思う。
そんなことを書くと
「殺人者をかばうのか」
とすぐに短絡的に決め付ける輩が多いけど待ってほしい。
まずこの兄は大学に何度も落ちていたという。
正直、大学に落ちるってそれだけでもかなりのショックだと思わないか?
というか受験して落ちた経験を持つ人なら
ましてや浪人経験があるならわかるだろうと思う。
自分自身をその時点でかなり責めるものだ。
もちろん傷つくだろう。
来年は勉強してうかるぞって思うわけだよね。
そこで自由にやっている妹に
「自分が勉強しないから成績が悪いと言っているけど、本当はわからないね」
というコトバは不必要なはずだ。
この妹に思いやりが少しでもあればこんなコトバはでてこない。
そうでなくとも家庭の環境からいって歯科医師になるためのプレッシャーはかなりのものだ。
そんなときに自由に好き勝手にやっている人間にそんなセリフなんていわれたくなんてないはずだ。
しかしこの兄は妹がアイドルでデビューしたいといってたり
風俗で働いていた?
とかそういうことをかばおうとしたのだろうけど
親には黙っていてもこの兄は知っていて親にそれを言うのはかわいそうだとだまっていたのかもしれない。
妹を思う気持ちと憎む気持ちとの葛藤。
「なら浪人生は人を殺してもいいのか」
という意見など、もちろんあたしは持たないのはいうまでもない。
だけどここであたしが何を一番いいたいのかといえば
「じゃぁ結局妹が悪いのか」
ということではない。
犯罪者心理というか誰かを殺そうとするには
それなりのバックグラウンドがあるはずなのだ。
確かに倫理的に殺人はいけないことくらい誰でもわかっている。
しかしその法律以前に人間的な罪悪を犯すくらいの何か、
これが一番のポイントだろう。
一方日本で問題になっているのは
犯罪被害者に対する国の扱いだ。
そして何より一番の功罪が
こういうプライバシーの侵害を犯すマスコミだと思う。
今回のケースが実に当てはまっていたので
タイミング的に引き合いに出したのだけど
今回、この兄は受験失敗に傷ついていた上、
自由にしている妹にいろいろいわれさらに傷つき、
殺人まで犯してしまった。
首を絞めて殺すというやり方は相当恨みがないとできないやり方だ。
しかし殺した瞬間に被害者は妹のほう、と世間的には摩り替わる。
両親はどうだろう。
自分の娘がなくなっただけでも悲しいだろう。
しかもそれを殺したのがまた自分の息子なわけだから
ショックとしかいいようがないはずだ。
その上、マスコミにより過去の殺された妹のいろんな問題点や
兄の問題点を数限りなく暴かれ
赤の他人であるあたしなんかが関係ない被害者のプライベートまで知ることになる。
おそらくはご両親は職業上にも問題がでてきてしまうだろう。
このほかの兄弟にも当然その影響は及ぶ。
確かに「知る権利」はあるのだろうけど
いくらなんでもここまで他人のプライバシーを
事件とはいえ暴かなくてもいいのではないか。
それにここまで知ってしまう必要性はないはずだ。
あたしたちもマスコミもこういう加害者を裁いたり被害者のプライバシーを詳細に知らなくてもいいはずだ。
マスコミの視聴率の餌食にあった家族という見方をあたしはしてしまう。
もしこの兄が服役したにしても
ただでさえ世間のイメージがマスコミにより洗脳されているわけだから
彼のプレッシャーはかなりのものだろう。
しかしこうした事件においてはいつ公人になるかわからないといっていいと思う。
たとえ突然通り魔的に殺されたにしても
自分のプライベートを洗いざらいマスコミはききだすだろう。
今回のケースはこの妹がグラビアデビューをしようとしたり
風俗で働いていたというものと歯科医師の両親というこのイメージのギャップが
マスコミ的に「ニュースとして目を引く(⇒視聴率がとれる)」
というのはあたしにでもわかる図式だ。
本当こういう暴き方はもうやめないか、といいたい。
裁かれるべきはメディアだろうと。
いまや日本のジャーナリズムはどうなっているのかと思う。
知らなくてもよいことと知るべきだったこと。
このあたりが視聴率という悪魔にマスコミは踊らされてしまい
善悪の判断がついていない気がするのだ。
それよりたとえば知らない間に住民税にしても法案が可決されたりとか
知らないうちに法律が変わっていたとか
そういうことのほうをもっともっと知っていくべきなのではないか。
ゴシップはエンターテイメントだけで十分だ。
新潟の震災から半月たった今、もはやマスコミはすでに見向きもしない。
被災者のテントに隠しマイクをつけていたくらいなのに。
今回の初公判のニュースはネットのニュース関連ではほとんどあまり流れていないが
テレビではあちこちでやっていたので
ネットニュースとマスコミのニュースとの温度差を
ダイレクトにあたしは感じた。
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今日は癒しフェアにいってきましたw
もちろん批判的な目線たっぷりで見てやろうww
っていうイジワルな考えもどこに?
というかんじでいたんですが
思った以上に企業的ってかんじでしたw
まさに見本市ですね。
たしかに怪しげなものもありますが
東京ガスやらDHCやらも参加していて
俗っぽさ満点でしたw
フラワーエッセンスから石からオーラソーマ、ホメオパシー、
で、アロマ、オーラリーディング、占い...
思うこともひとしおでした。
だけど基本的にいえることは
新たなものを求めていったのもあったけど
ほとんどがすでに実践済みであるってわかりました。
ホメオパシーのブースもあったけど
ホメオパスに関しては実践はしていないけど
5年前友人に教えてもらってからいろいろと学んだりしていました。
オーラリーディングはなんだかなってかんじです。
正直言って胡散臭さたっぷりなかんじで面白かったw
占いもね、デパートとかでやってるのもよくわかんないんですが
基本的にあたしが誰かを占うときって落ち着けるところでないとダメなんだよね。
それだけ素人なんですけど
占うのってすんごく集中力がいるし疲れる。
だからああゆう人が大勢集まるところで占うのって
質のいい占いが、あたしならできないなって思いました。
そこらへんプロは違うのかなっていう意味でね。
もしあたしなら大量生産的な占いはしたくないから。
エラソーにいっていますが。
そういう相談みたいなのって誰かの人生なわけじゃない?
もっと自分なら大切に占いたいけどなっていう意味。
だってさ、占いって潜在的な部分だから
結構まわりの気を吸ってしまうタイプには
ああいうかんじのところってどうかって思うんだ。
そして、あたしみたく占いをする人は
邪気って吸いやすいって人も少なくないって思うのだけど。
癒し癒しというけど基本的に
人が大勢集まるような場所では
集まる人数だけ邪気を吸ったりしやすい人が多いはず。
なのになんでああいうブースでいろいろ占いができたり
無機質的に用意されたところでいろいろ「癒し」体験ができるんだろう?
それこそまさに商売だよなっていうギモンが
スピリチュアル歴5年でサロンを持たない素人のユーザの考えでした。
素人目線すぎですかね。
あまり知らない人にはいろいろなアイテムを知る機会だからいいのだろうけど
でもそれって要するに顧客の間口を広げたいためのものだし。
お店の人も最初それを見ているときは
作られたスマイルで近づいてくるんですがw
「○○ご存知なんですか?」
ときいてきて、それがわかるといきなりあたしから離れる人が多くて
いかにも商業だって思いました(笑;;;
知ってちゃダメなんか?知ってちゃ!!ww(^ω^;;;;;)
顧客をもっと大事にしろよな!w
基本的にああいう雑多な場所での癒しフェアやすぴこんて
そのものには癒しの意味があんまし感じられないと思ったというか
本当にこんなのもありますよっていう見本市でしかないんだよねw
第一それらをすでに実践している身としては
特にアイテムに新鮮さという意味では何も感じませんでしたが
ひとつだけ出会いが。
いろんなブースをまわりました。
とある石のお店で、すごく気になったアメジストの原石があったの。
ほかの店を見てから考えようって思って
いろんな石のブースを回ったのだけど
ほかのところはほとんどがチャクラストーンとかばっか。
ほかにもアメジスト原石はあったんですけど
パワーを感じない。
多くの石がいろんなところにでて疲れてしまってるような印象。
純粋な鉱物を好きな気持ちを感じさせるとこって
これまた少なかった。
(じゃ、ミネラルフェアに行けってかんじですがw)
三葉虫とかがあった店があって、
それはちょっとドキドキしちゃいましたけどw
三葉虫買おうかどうか考えてしまいました。
三葉虫もアンモナイトも隕石も大好きさ!w
だってかわいいじゃないか、三葉虫w
誰も見ていなかったけどねw
癒しやスピリチュアルを愛する人は
天使好きな人が多いと書いたことがあるけど
あたしからいわせたらですね、
彼らきれいなもの大好きすぎってかんじw
逆なことを言えば
キレイなものしか目を向けたがらないように
あたしの目には映ってしまうよ?
世の中には汚いもののほうが多いし商業的なものばかり。
現実なんてそんなもの。
ウラには何度もいうけど癒し産業があるってことを
決して忘れてはいけないのよ。
ある石の店で見つけたアメジスト。
あまりにも強い波動を感じたの。
なぜだろう、
なぜだろう。
再びブースを訪れた。
そこは石の卸の店なんですけど
石って本当に一期一会。
これは買わなくちゃ!って買ってしまったw
そこにはクリソコラの原石とかセレスタイトの原石とか
あたしにもう少しのお金があれば!ってかんじでしたがw
クリソコラの原石すごかった。
緑色のおサイケ柄でしたw
うわ、サイケwwwっていうかんじが見ていて軽い高揚感を促されるようなかんじw
アメジスト原石は先日も買ったのだけど
そのときを上回るほどのパワーを感じました。
お店の人に
「あなたのお店の石ってすごく生きてるかんじがしますね。
ものすごい強いパワーを感じます」
といったら
「久々にわかってくれる人の声をききましたw」
といわれました(笑
なんか本当に生きてるかんじだった。
人間でいえば目の輝きが違う感じ。
石が意思をもってるかんじ(ダジャレかよw
ブラジル産のアメジストでした。
マダガスカルのローズクオーツとかもっと知りたい、出会いたいな。
アーユルヴェーダのブースでは
「よろしければアンケートを」
とかいわれましたが
アーユルヴェーダに対する熱い意見を語ってしまい
「そういうふうな見方をしてくれる方はあんましいません」
といわれました。
何をいったかといえば
アーユルヴェーダってサロンやエステで
マッサージとしてやっていらっしゃるところが多いんですが
一方、ヨガとかにしてもそうですが
一部のものだけをクローズアップされる傾向が日本はすごく多いって思うのよ。
アーユルヴェーダってさ、インドの伝承医学だから
学ぼうと思って日本ででてる本を絶版のものも一部含めて
ほとんど目を通しました。
だけどそんなじゃぜんぜんたりない!
ってくらいです。
そのくらいすごく広くて深いもの。
なのにそこらの技術だけ習得しようとマッサージとかだけやっても
それは本当の意味でアーユルヴェーダと接しているわけではない。
生き方のひとつといってもいいんだよね。
インド占星術とかも、今回はなかったけど
インド占星術もすごく緻密で深いものです。
そんなこんなのいろいろを理解してやってる人がどれくらいいるのかってことです。
アーユルヴェーダは体質とかのバランス含めて
基本は食生活だったり生活の仕方がメインなわけですが
その一部だけが切り取られるかのような広がりをしてるので
ギモンを感じていますというお話をあたしのほうからしてしまいました(笑
いや、アンケートを断るのもなんだなって思って語りつくして逃げただけなんですけどねw
結局そこで買ったのはアメジスト2個と
こんにゃくプリン(笑

ぷりんこまんなん
1個64.8kcal!!!!!!
カラメルソースもついていてぜんぜんコンニャクじゃなくて
とってもオススメだぉ★
こんにゃくプリン以前食べてとってもおいしかったのですが
それがなぜ癒しフェアに??ww
とか思いつつ、買おうと思ってブースをみたら
「買うんですか?」
という商売っけのなさw
そこがまた気に入ったのですが(笑
こんにゃく水ようかんもうまいでw
*
行きもだけど帰りにも空を見て
やっぱし雲の写真をずっととりまくるあたし。
雲を見て「あれ地震きそうw」とかやってるほうが
よっぽど癒されているかも。
雲や空はあたしを確実に癒してくれるのもまた事実。
不思議なことに癒しフェアに行ったのに
誰一人としてその帰りも行きも
雲を見て、まさか写真とかまではとる人はいませんでした。
癒しっていっても...
お金払うことなんかじゃ、本当はないのに。
それは物欲をただ満たしているだけだよ。
雲を見たり、空や月、星の輝き、植物の美しさ...
そういう自然の恩恵を受けてることを実感すべきなのに
そういうものを利用して作りましたっていう
たとえばオーガニックスキンケアとか
フラワーレメディもだけどさ
木を見て森を見ずって感じがしてしまうの。
化粧品を使ったりレメディの主体となっているはずの自然に眼を向けないで
目の前にある商品にだけ目を向けているって
おかしいって思うんだ。
そんな心じゃ、お金払って物欲満たすだけで
本当に癒されたいの?
って思ってしまうんだ。
あたしひねくれてるのかな。。。
だってさ、少なくともあたしには
うちから見る空よりも
ビックサイトから見る空のほうが高くて
雲も地震ありそうって思いつつ、でも美しくて
いつまでもいつまでも空を見ていたかった。
レイブにいったときフルムーンや星の下で
大好きな音とともに踊れることがとても幸せだと感じた。
癒しって本来は、そういうことなんじゃないの?
そんなギモンを深めてしまいました。
だってさ、雲って芸術だって思うんだよ?
今そこにある空って
その雲の形ってその瞬間でしかない芸術だって思うの。
そういうステキな空を見れたことって
とっても幸せだって思うんだ。
それって癒されてるってことなんだと思うの。
癒しフェアに行って
空を誰も見上げていなかったことに気づいた瞬間、
なにかすごくその「癒し」と呼ばれるこの業界に異なるものをとても感じた。
癒されたいはずのそこにいく客が
誰一人として空を見上げなかったことが
あたしは何よりも悲しかった。
オーラソーマも、フラワーレメディも、アロマにしても
それは商品だからさ、買おうと求めればすぐに手に入るもの。
だけど石も、雲も、手に入らない一期一会の芸術作品との出会い。
それなのになぜ癒しやスピリチュアル業界にうまくのせられて
ソウルメイトとの出会いばかりを求める?
確かにわかる気はするけど
ソウルメイトの意味をそもそもわかっていないんじゃないの?
癒しフェアでも「ソウルメイトと出会う縁を結びます」とかあったけどさ、
あなたのその親もソウルメイトだよ?
大切なお友達も、ダーリンもソウルメイトだよ?
みんなあなたの魂を成長させるためにいる人たちだよ?
あなたをどこかで支えている人たちだよ?
そういう人たちとの出会いになぜ感謝できない?
まさに一期一会なんだよ?
癒しを求めているのもいいだろうって思う。
存分に癒されなさい。
だけどもっとそばにある人とのつながりを大切にしてほしい。
そしてもっと近くにある自然を大切にして。
そこがきっと、本来、人間や生き物が、
帰るはずの場所なんだよ。
あなたの帰る、居場所なんだよ?
一緒に行った友達は癒しに特別興味がある子ではなかったのですが
だからこそ客観的意見として
あたしの意見をきいてもらうにも
その子の意見をきくのもとても大切。
いつもあたしを支えてくれてありがとう。







こういう石垣状の雲は大きめ地震がおきる直前の証拠です。
わりと早くに結果が出ます。
見たら注意してね。

ちなみに南西方向でしたが
07/28 17:56 遠州灘 (北緯34.0度 , 東経137.5度) 震度1 M5.0 深さ340km
がおきました。
震度1ですがマグニチュード5くらいあったわけです。
北西方向にも雲があったけど
それについて結果が出ていません。

















ウロコ状の雲、波状の雲なども地震雲であることが多いです。
気象的意味では雨が近いとされています。
あと帯状の長い雲も地震雲ですね。
そのあとであたしと友達は品川駅へ。
ワインのお店に行きました。
スペイン料理?イタリアン?
TODOS
http://r.gnavi.co.jp/g949102/
〒108-0075 東京都港区港南2-2-9 朝日ビル1F
JR品川駅 港南口 徒歩2分
京急本線品川駅 港南口 徒歩1分
ランチ 11:00〜15:00(L.O.14:30)
ディナー 月〜土 17:00〜03:00(L.O.02:30)
ディナー 日・祝 15:00〜23:30(L.O.23:00)

おいしかったしリーズナブルだったぉ。
チーズとかもうまいしね。

お酒もうまかった。
イタリアンは以前恵比寿のイルボッカローネにいったけど
値段の割にはうまくなくてがっかりしました。
ここの安いのに生ハムうまかったww
で、そのあとデニーズにいってw

チョコサンデー食べたw
甘いものはあたしの最大の癒しだったりw
そこでも地震と防災について語りまくっていたら
「地震のことをそんなに語る人もあんまいないよねw」
といわれたのはいうまでもありませんw
帰りに空を見上げると月が見事にキレイ!
夜空に浮かぶ満月前の月を愛でながら
キャッキャいいながら携帯で写真をとっていました(笑

「月だぉ★月を撮るおっぉ(^ω^)」
とかいいながらはしゃいでいたら友達に
「ねぇ、一度殴ってもいいかなぁw(#^ω^;)」
とかいわれたのはナイショですw
その友達はいっていた。
「癒しフェアにくるような人たちってさ、幸せを必要以上に求めてるような印象があるな」
おそらくはそうだ。
癒しっていうものはきっと
終わりの見えない執着でしかないのだ。
求めるのはきっと幻想に近くて
何かに気づかない限り永遠に癒しを求め続けてしまう
麻薬みたいなものなのかもしれないのだろう。
あたしは確かに癒しは好きだ。
だけどこういうものの見方があるってことも知ってほしいなって思った。
癒しのフェアに来ていた、空を見上げない彼らは
魂が震えるくらいの感動ってしたことがないのかなとも思った。
魂が揺さぶられるくらいの感動。
音と、自然と、自分とが、溶け合って、
ひとつになる瞬間を、ハッキリ、感じている。
魂の鼓動を感じた瞬間を、しっかり、
覚えている。
自然と、音との出会い。
友達との出会い。。。
そして、すべての存在に、
感謝できることのうれしさ。
一瞬に、永遠を見出す感覚_____
そんな体験ができたあたしは、
きっと、とっても、しあわせなんだろうな、
ってなんとなく思えてきた。
_____魂の鼓動、感じてますか?
そして、あたしは、
今日も空を見上げる。
もちろん批判的な目線たっぷりで見てやろうww
っていうイジワルな考えもどこに?
というかんじでいたんですが
思った以上に企業的ってかんじでしたw
まさに見本市ですね。
たしかに怪しげなものもありますが
東京ガスやらDHCやらも参加していて
俗っぽさ満点でしたw
フラワーエッセンスから石からオーラソーマ、ホメオパシー、
で、アロマ、オーラリーディング、占い...
思うこともひとしおでした。
だけど基本的にいえることは
新たなものを求めていったのもあったけど
ほとんどがすでに実践済みであるってわかりました。
ホメオパシーのブースもあったけど
ホメオパスに関しては実践はしていないけど
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オーラリーディングはなんだかなってかんじです。
正直言って胡散臭さたっぷりなかんじで面白かったw
占いもね、デパートとかでやってるのもよくわかんないんですが
基本的にあたしが誰かを占うときって落ち着けるところでないとダメなんだよね。
それだけ素人なんですけど
占うのってすんごく集中力がいるし疲れる。
だからああゆう人が大勢集まるところで占うのって
質のいい占いが、あたしならできないなって思いました。
そこらへんプロは違うのかなっていう意味でね。
もしあたしなら大量生産的な占いはしたくないから。
エラソーにいっていますが。
そういう相談みたいなのって誰かの人生なわけじゃない?
もっと自分なら大切に占いたいけどなっていう意味。
だってさ、占いって潜在的な部分だから
結構まわりの気を吸ってしまうタイプには
ああいうかんじのところってどうかって思うんだ。
そして、あたしみたく占いをする人は
邪気って吸いやすいって人も少なくないって思うのだけど。
癒し癒しというけど基本的に
人が大勢集まるような場所では
集まる人数だけ邪気を吸ったりしやすい人が多いはず。
なのになんでああいうブースでいろいろ占いができたり
無機質的に用意されたところでいろいろ「癒し」体験ができるんだろう?
それこそまさに商売だよなっていうギモンが
スピリチュアル歴5年でサロンを持たない素人のユーザの考えでした。
素人目線すぎですかね。
あまり知らない人にはいろいろなアイテムを知る機会だからいいのだろうけど
でもそれって要するに顧客の間口を広げたいためのものだし。
お店の人も最初それを見ているときは
作られたスマイルで近づいてくるんですがw
「○○ご存知なんですか?」
ときいてきて、それがわかるといきなりあたしから離れる人が多くて
いかにも商業だって思いました(笑;;;
知ってちゃダメなんか?知ってちゃ!!ww(^ω^;;;;;)
顧客をもっと大事にしろよな!w
基本的にああいう雑多な場所での癒しフェアやすぴこんて
そのものには癒しの意味があんまし感じられないと思ったというか
本当にこんなのもありますよっていう見本市でしかないんだよねw
第一それらをすでに実践している身としては
特にアイテムに新鮮さという意味では何も感じませんでしたが
ひとつだけ出会いが。
いろんなブースをまわりました。
とある石のお店で、すごく気になったアメジストの原石があったの。
ほかの店を見てから考えようって思って
いろんな石のブースを回ったのだけど
ほかのところはほとんどがチャクラストーンとかばっか。
ほかにもアメジスト原石はあったんですけど
パワーを感じない。
多くの石がいろんなところにでて疲れてしまってるような印象。
純粋な鉱物を好きな気持ちを感じさせるとこって
これまた少なかった。
(じゃ、ミネラルフェアに行けってかんじですがw)
三葉虫とかがあった店があって、
それはちょっとドキドキしちゃいましたけどw
三葉虫買おうかどうか考えてしまいました。
三葉虫もアンモナイトも隕石も大好きさ!w
だってかわいいじゃないか、三葉虫w
誰も見ていなかったけどねw
癒しやスピリチュアルを愛する人は
天使好きな人が多いと書いたことがあるけど
あたしからいわせたらですね、
彼らきれいなもの大好きすぎってかんじw
逆なことを言えば
キレイなものしか目を向けたがらないように
あたしの目には映ってしまうよ?
世の中には汚いもののほうが多いし商業的なものばかり。
現実なんてそんなもの。
ウラには何度もいうけど癒し産業があるってことを
決して忘れてはいけないのよ。
ある石の店で見つけたアメジスト。
あまりにも強い波動を感じたの。
なぜだろう、
なぜだろう。
再びブースを訪れた。
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石って本当に一期一会。
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ブラジル産のアメジストでした。
マダガスカルのローズクオーツとかもっと知りたい、出会いたいな。
アーユルヴェーダのブースでは
「よろしければアンケートを」
とかいわれましたが
アーユルヴェーダに対する熱い意見を語ってしまい
「そういうふうな見方をしてくれる方はあんましいません」
といわれました。
何をいったかといえば
アーユルヴェーダってサロンやエステで
マッサージとしてやっていらっしゃるところが多いんですが
一方、ヨガとかにしてもそうですが
一部のものだけをクローズアップされる傾向が日本はすごく多いって思うのよ。
アーユルヴェーダってさ、インドの伝承医学だから
学ぼうと思って日本ででてる本を絶版のものも一部含めて
ほとんど目を通しました。
だけどそんなじゃぜんぜんたりない!
ってくらいです。
そのくらいすごく広くて深いもの。
なのにそこらの技術だけ習得しようとマッサージとかだけやっても
それは本当の意味でアーユルヴェーダと接しているわけではない。
生き方のひとつといってもいいんだよね。
インド占星術とかも、今回はなかったけど
インド占星術もすごく緻密で深いものです。
そんなこんなのいろいろを理解してやってる人がどれくらいいるのかってことです。
アーユルヴェーダは体質とかのバランス含めて
基本は食生活だったり生活の仕方がメインなわけですが
その一部だけが切り取られるかのような広がりをしてるので
ギモンを感じていますというお話をあたしのほうからしてしまいました(笑
いや、アンケートを断るのもなんだなって思って語りつくして逃げただけなんですけどねw
結局そこで買ったのはアメジスト2個と
こんにゃくプリン(笑

ぷりんこまんなん
1個64.8kcal!!!!!!
カラメルソースもついていてぜんぜんコンニャクじゃなくて
とってもオススメだぉ★
こんにゃくプリン以前食べてとってもおいしかったのですが
それがなぜ癒しフェアに??ww
とか思いつつ、買おうと思ってブースをみたら
「買うんですか?」
という商売っけのなさw
そこがまた気に入ったのですが(笑
こんにゃく水ようかんもうまいでw
*
行きもだけど帰りにも空を見て
やっぱし雲の写真をずっととりまくるあたし。
雲を見て「あれ地震きそうw」とかやってるほうが
よっぽど癒されているかも。
雲や空はあたしを確実に癒してくれるのもまた事実。
不思議なことに癒しフェアに行ったのに
誰一人としてその帰りも行きも
雲を見て、まさか写真とかまではとる人はいませんでした。
癒しっていっても...
お金払うことなんかじゃ、本当はないのに。
それは物欲をただ満たしているだけだよ。
雲を見たり、空や月、星の輝き、植物の美しさ...
そういう自然の恩恵を受けてることを実感すべきなのに
そういうものを利用して作りましたっていう
たとえばオーガニックスキンケアとか
フラワーレメディもだけどさ
木を見て森を見ずって感じがしてしまうの。
化粧品を使ったりレメディの主体となっているはずの自然に眼を向けないで
目の前にある商品にだけ目を向けているって
おかしいって思うんだ。
そんな心じゃ、お金払って物欲満たすだけで
本当に癒されたいの?
って思ってしまうんだ。
あたしひねくれてるのかな。。。
だってさ、少なくともあたしには
うちから見る空よりも
ビックサイトから見る空のほうが高くて
雲も地震ありそうって思いつつ、でも美しくて
いつまでもいつまでも空を見ていたかった。
レイブにいったときフルムーンや星の下で
大好きな音とともに踊れることがとても幸せだと感じた。
癒しって本来は、そういうことなんじゃないの?
そんなギモンを深めてしまいました。
だってさ、雲って芸術だって思うんだよ?
今そこにある空って
その雲の形ってその瞬間でしかない芸術だって思うの。
そういうステキな空を見れたことって
とっても幸せだって思うんだ。
それって癒されてるってことなんだと思うの。
癒しフェアに行って
空を誰も見上げていなかったことに気づいた瞬間、
なにかすごくその「癒し」と呼ばれるこの業界に異なるものをとても感じた。
癒されたいはずのそこにいく客が
誰一人として空を見上げなかったことが
あたしは何よりも悲しかった。
オーラソーマも、フラワーレメディも、アロマにしても
それは商品だからさ、買おうと求めればすぐに手に入るもの。
だけど石も、雲も、手に入らない一期一会の芸術作品との出会い。
それなのになぜ癒しやスピリチュアル業界にうまくのせられて
ソウルメイトとの出会いばかりを求める?
確かにわかる気はするけど
ソウルメイトの意味をそもそもわかっていないんじゃないの?
癒しフェアでも「ソウルメイトと出会う縁を結びます」とかあったけどさ、
あなたのその親もソウルメイトだよ?
大切なお友達も、ダーリンもソウルメイトだよ?
みんなあなたの魂を成長させるためにいる人たちだよ?
あなたをどこかで支えている人たちだよ?
そういう人たちとの出会いになぜ感謝できない?
まさに一期一会なんだよ?
癒しを求めているのもいいだろうって思う。
存分に癒されなさい。
だけどもっとそばにある人とのつながりを大切にしてほしい。
そしてもっと近くにある自然を大切にして。
そこがきっと、本来、人間や生き物が、
帰るはずの場所なんだよ。
あなたの帰る、居場所なんだよ?
一緒に行った友達は癒しに特別興味がある子ではなかったのですが
だからこそ客観的意見として
あたしの意見をきいてもらうにも
その子の意見をきくのもとても大切。
いつもあたしを支えてくれてありがとう。







こういう石垣状の雲は大きめ地震がおきる直前の証拠です。
わりと早くに結果が出ます。
見たら注意してね。

ちなみに南西方向でしたが
07/28 17:56 遠州灘 (北緯34.0度 , 東経137.5度) 震度1 M5.0 深さ340km
がおきました。
震度1ですがマグニチュード5くらいあったわけです。
北西方向にも雲があったけど
それについて結果が出ていません。

















ウロコ状の雲、波状の雲なども地震雲であることが多いです。
気象的意味では雨が近いとされています。
あと帯状の長い雲も地震雲ですね。
そのあとであたしと友達は品川駅へ。
ワインのお店に行きました。
スペイン料理?イタリアン?
TODOS
http://r.gnavi.co.jp/g949102/
〒108-0075 東京都港区港南2-2-9 朝日ビル1F
JR品川駅 港南口 徒歩2分
京急本線品川駅 港南口 徒歩1分
ランチ 11:00〜15:00(L.O.14:30)
ディナー 月〜土 17:00〜03:00(L.O.02:30)
ディナー 日・祝 15:00〜23:30(L.O.23:00)

おいしかったしリーズナブルだったぉ。
チーズとかもうまいしね。

お酒もうまかった。
イタリアンは以前恵比寿のイルボッカローネにいったけど
値段の割にはうまくなくてがっかりしました。
ここの安いのに生ハムうまかったww
で、そのあとデニーズにいってw

チョコサンデー食べたw
甘いものはあたしの最大の癒しだったりw
そこでも地震と防災について語りまくっていたら
「地震のことをそんなに語る人もあんまいないよねw」
といわれたのはいうまでもありませんw
帰りに空を見上げると月が見事にキレイ!
夜空に浮かぶ満月前の月を愛でながら
キャッキャいいながら携帯で写真をとっていました(笑

「月だぉ★月を撮るおっぉ(^ω^)」
とかいいながらはしゃいでいたら友達に
「ねぇ、一度殴ってもいいかなぁw(#^ω^;)」
とかいわれたのはナイショですw
その友達はいっていた。
「癒しフェアにくるような人たちってさ、幸せを必要以上に求めてるような印象があるな」
おそらくはそうだ。
癒しっていうものはきっと
終わりの見えない執着でしかないのだ。
求めるのはきっと幻想に近くて
何かに気づかない限り永遠に癒しを求め続けてしまう
麻薬みたいなものなのかもしれないのだろう。
あたしは確かに癒しは好きだ。
だけどこういうものの見方があるってことも知ってほしいなって思った。
癒しのフェアに来ていた、空を見上げない彼らは
魂が震えるくらいの感動ってしたことがないのかなとも思った。
魂が揺さぶられるくらいの感動。
音と、自然と、自分とが、溶け合って、
ひとつになる瞬間を、ハッキリ、感じている。
魂の鼓動を感じた瞬間を、しっかり、
覚えている。
自然と、音との出会い。
友達との出会い。。。
そして、すべての存在に、
感謝できることのうれしさ。
一瞬に、永遠を見出す感覚_____
そんな体験ができたあたしは、
きっと、とっても、しあわせなんだろうな、
ってなんとなく思えてきた。
_____魂の鼓動、感じてますか?
そして、あたしは、
今日も空を見上げる。
マハトマ・ガンジーはいいました。
『弱い者ほど相手を許すことができない。
許すということは、強さの証だ』
しばしば語り合う事なのですが
スピリチュアルについて以前友人と語りあったことがありました。
言葉をとり間違っていたらその人に申し訳ないんだけど
「スピリチュアル系の人は憎しみを感じていないようだ。
憎しみっていうのは人間の感情だから
憎しみを感じないのは不自然だって思う」
そのようにその人は話していました。
スピリチュアルの世界に足をいれると
彼らは得てして笑顔であることが多いです。
あたしからみれば正直、不自然な笑顔に感じてならないんです。
(というかそういう人を何人も見てきたのでそう思ってしまうんですけどね...)
あたしの心がひねくれていたり批判的目線であるからだと思っていましたが
友人も同じようなことを感じたように聞き取りました。
憎しみを我慢しつづけると不自然な笑顔になる気がしてならないのです。
人間は生きる年数を重ねるたびに
感情が表情に刻み込まれてくるもの。
本当に心から、すべての人を許しわかちあうのは
いってみれば理想論であり机上の空論とも思います。
まず身近にある憎しみと向き合い
対象を理解して受け入れていくのは成長のプロセスの大きな第一歩です。
彼らはそういうもの(世間のしがらみ)をあえて避けているように、あたしの目には映るのです。
スピリチュアルでは魂の成長をよくいいますが
いわゆる現世でのしがらみを通してそれに直面して、
経験して、切磋琢磨して成長していくほうが
よっぽど人間らしいとあたしには思えるんです。
スピリチュアルの世界で魂を成長させようとする人も
結構見かけたりしますが
あたしからみたら単なる人生の経験不足でしかないと思うんです。
何の苦労もなしに魂を成長させようと考えている人たちがもしいるとすれば
それは自分やスピリチュアル業界の都合でしかないような気がしてなりません。
人間の成長は何か困難などの壁につきあたったとき
それを乗り越えたときに得られるものだと思うからです。
そういうことをせずに単に魂の成長というコトバに惑わされているだけの人はナンセンスでしかないと思うのです。
すべての人を許せる人、受け入れる人、すべてを愛せる人は
逆に人間らしくない気がするのです。
もしそれができるとすればおそらくは神です。
憎しみは人間ならば誰にでもある感情であり
なぜこのようなものがあるかといえば
人間を成長させるために神が与えた感情だと思うのです。
あたしの場合はまず相手への憎しみの気持ちはいったん
自分の中で「肯定」します。
そうやって、まず最初に憎しみを抱くことは必ずしも悪くはないんだと自分を納得させます(笑)
そしてその感情を「保留」させておきます。
次に、その相手について、なんで気に食わないかをよく考察してみることにしています。
その内容は千差万別です。
どんなに親しい人だって、家族だって
ここはイヤだとかって部分は確実にある。
それは当たり前のことです。
だって相手は自分ではないのだから。
だけど自分に対してもイヤだって思うことってたまにあるじゃないですか。
相手を受け入れているし理解している、そう思っていたとしても
何か壁にぶつかったときにはじめてその問題点に気づきます。
こんなところがひっかかる、気に食わない、
そのくらい人間として当たり前なのです。
一番厄介なのは「相手を理解してるつもり」になることです。
理解している、と思い込んだところで
所詮は自分の物差しで相手を見ているものだからです。
これは言葉を変えれば自分の都合、でもあります。
逆に相手のモノサシに自分の物差しを合わせようとしてばかりいると
知らず知らずのうちにストレスをためていきます。
この矛盾をわかっていない限り繰り返して何度も起こる感情なのだと思うのです。
こういうことはやはり男女関係で一番よくいわれます。
男女の違いがあるのはもちろんありますけどね。
だからこそこじれたものは修復が困難だったりもします。
男と女は一生わかりあえないと思います。
どんなにわかりたくてもね。
逆にいえばわからないからこそ
魅力を感じてひかれあうのでしょう。
相手をすべてわかってしまったら
少なくとも恋ではなくなります。
恋というのはモノサシを相手に合わせているかんじ、
愛というのは相手を受け入れる感じだってあたしは思ってます。
男女関係がいちばんわかりやすいパターンですが
人間関係すべてがそうだって思います。
でもなかなかできないからこそ宗教など、人類永遠のテーマとしてよく説かれるのだって思います。
恋愛は人生の経験のステージですよね(苦笑
それでも一緒にいたいって思うのは
友情とか愛情ってもんは
それを塗り替えるくらいの大きなパワーがあるってことだね。
憎しみの気持ち。
それが「誰か」に向かっているとき
もしかしたら本当は「自分」に向けられたものなのかもしれません。
「誰か」に自己投影しただけかもしれません。
結果的に憎しみという感情は自分で自分を苦しめてしまうものなのです。
赦すことっていうのは相手を理解して受け入れることです。
相手を受け入れてるつもりでも
いざカベにあたったとき、はじめて、自分は本当は相手を受け入れているんでなく、単に相手にあわせているだけなのかもな
なんて思い直します。
相手を真の意味で理解して受け入れているならば
人間同士対立することはないと思いませんか?
他人は所詮自分ではないんですよね。
生まれも育ちも環境も考えも違う他人なんです。
相手を受け入れることと、相手に合わせることでは
残念ながらまったく意味合いが違ってきます。
それは相手にあわせるのは自分の都合も含むからなんです。
だけど、相手を、自分以外の誰かを、
「理解しよう」という姿勢が何よりも大切なんですよね。
赦すこと、理解することっていうのは、おそらく永遠の人類のテーマだって思います。
なぜならば多くの宗教や思想というものが
愛をテーマに説いていたり、その内容は赦すことや受け入れることがメインです。
愛と憎しみはよく引き合いにだされます。
一見してこの二つは双極関係です。
でもそれって本当でしょうか?
愛の対極は憎しみではないような気がします。
憎しみの正体は恐れなんだと思うんです。
正体というより根というのかな。
恐れはもっとも原始的な人間の感情だって思うんです。
そもそも憎しみというのは対象人物があって初めておこる感情だからです。
それに相手に対してそれなりの興味がなければ起こる感情ではありません。
つまり興味のあるような相手が存在しなければ憎しみという感情はありえません。
では本当に自分ひとりぼっちになってしまったら憎しみがなくなり楽になるのでしょうか。
ひとりになったときに今度、戦わなければならないのは不安や恐れだと思うのです。
自分以外に誰かが存在しうれば憎しみの発生する確率はあるものです。
誰かを憎むことや恨むこと、許せない気持ちはとてもつらいことです。
許せないというのは結局自分がつらくなるんですよね。
でも人間が成長するために必要な感情です。
憎しみはベクトルを変えれば向上心にもなりえます。
不安は結局不安でしかありません。
よく耳にする言葉が「自分を赦すことは他人を赦すこと」っていいます。
これはどういう意味かというと
相手を憎んだり赦せないでいる自分がいる限り
いやな気持ちはずっと続いてしまいます。
相手を赦すことは自分を赦すこと。
それは、相手を赦せないと思っている自分、を赦すことです。
とても難しいテーマです。
一生かかってもできない人のほうが多いかもしれません。
憎しみをもってして自分の弱さを気付かせてくれる存在は大切です。
なぜならば憎しみは自分の弱さを乗り越えるチャンスだからです。
憎しみを消すことはむつかしいことです。
だけど相手を許せるということはうれしいこと。
憎しみを乗り越えて相手を理解しようと努力し、許そうとし、受け入れようとしていくことは
自分が成長できるかなり大きなチャンスですよね。
なかなか難しいことではありますが
チャレンジしがいがあります。
今の時代はどうしても人間関係が希薄になりがちです。
ネットなどの文字だけのバーチャルな世界だと
自分の想像や思い込みが優先になります。
憎しみが結局は自分をふりまわしていると書きましたが
ネットの場合は自分の受け取り方でどうとでもとれます。
よくブログが炎上したり
荒れた掲示板をみるとひとつのことばに対してこれだけの受け取り方があるなと
よく思ったりします。
ことばはイキモノです。
一見それは文字でしかありませんが
たとえば学校の裏サイトのように
時に誰かを死にまで追い詰めることすらあります。
ことばは暴力以上の武器にもなるということです。
だから気を付けないといけないなとときどき思います。
憎しみは自分をかえていくチャンスではありますが
憎しみは憎しみをよんでしまうことのほうが実際は多いです。
憎しみを抱いたときにすることは決して我慢することではありません。
スピリチュアルやニューエイジ系の人が憎しみを感じていないかどうか
それはあたしにはわかりません。
憎しみを感じていてもオモテに出さないように自己訓練しているのかもしれないし、
悟りを開いているのかもしれないし。
少なくとも人間として最低限、
憎しみはあると思います。
幼いころ両親に虐待されてきたりの人は
そういう感情が麻痺していることも実際多いです。
それは痛みなどの感情を「感じないように」生きてくるケースが多いからなんです。
憎しみや怒りを知らなければ、
誰かを許すことなんて決してできない。
苦しさや悲しみ、挫折などを味わってみてはじめて
誰かにやさしくできる。
自分を赦してからこそ
はじめて誰かを赦すことができたり、
自分が傷ついて苦しんで辛くなって
弱っているときこそ周りの優しさが身にしみる。
これまで知らなかった誰かの一面を知るきっかけにもなる。
何度もここで書いていることですが
魂の成長っていうものは
辛い経験なしには得られないものだと思います。
瞑想だけしてれば悟りを開いて成長できるってもんではありません。
何事も経験なのです。
人生は魂の経験の場です。
苦しみがあるからこそ
喜びという感情があるのです。
辛いことや苦しいことを乗り越えない限り、
そういったプロセスを踏んでこそ
はじめて魂の成長が実感できるものだと思うのです。
『弱い者ほど相手を許すことができない。
許すということは、強さの証だ』
しばしば語り合う事なのですが
スピリチュアルについて以前友人と語りあったことがありました。
言葉をとり間違っていたらその人に申し訳ないんだけど
「スピリチュアル系の人は憎しみを感じていないようだ。
憎しみっていうのは人間の感情だから
憎しみを感じないのは不自然だって思う」
そのようにその人は話していました。
スピリチュアルの世界に足をいれると
彼らは得てして笑顔であることが多いです。
あたしからみれば正直、不自然な笑顔に感じてならないんです。
(というかそういう人を何人も見てきたのでそう思ってしまうんですけどね...)
あたしの心がひねくれていたり批判的目線であるからだと思っていましたが
友人も同じようなことを感じたように聞き取りました。
憎しみを我慢しつづけると不自然な笑顔になる気がしてならないのです。
人間は生きる年数を重ねるたびに
感情が表情に刻み込まれてくるもの。
本当に心から、すべての人を許しわかちあうのは
いってみれば理想論であり机上の空論とも思います。
まず身近にある憎しみと向き合い
対象を理解して受け入れていくのは成長のプロセスの大きな第一歩です。
彼らはそういうもの(世間のしがらみ)をあえて避けているように、あたしの目には映るのです。
スピリチュアルでは魂の成長をよくいいますが
いわゆる現世でのしがらみを通してそれに直面して、
経験して、切磋琢磨して成長していくほうが
よっぽど人間らしいとあたしには思えるんです。
スピリチュアルの世界で魂を成長させようとする人も
結構見かけたりしますが
あたしからみたら単なる人生の経験不足でしかないと思うんです。
何の苦労もなしに魂を成長させようと考えている人たちがもしいるとすれば
それは自分やスピリチュアル業界の都合でしかないような気がしてなりません。
人間の成長は何か困難などの壁につきあたったとき
それを乗り越えたときに得られるものだと思うからです。
そういうことをせずに単に魂の成長というコトバに惑わされているだけの人はナンセンスでしかないと思うのです。
すべての人を許せる人、受け入れる人、すべてを愛せる人は
逆に人間らしくない気がするのです。
もしそれができるとすればおそらくは神です。
憎しみは人間ならば誰にでもある感情であり
なぜこのようなものがあるかといえば
人間を成長させるために神が与えた感情だと思うのです。
あたしの場合はまず相手への憎しみの気持ちはいったん
自分の中で「肯定」します。
そうやって、まず最初に憎しみを抱くことは必ずしも悪くはないんだと自分を納得させます(笑)
そしてその感情を「保留」させておきます。
次に、その相手について、なんで気に食わないかをよく考察してみることにしています。
その内容は千差万別です。
どんなに親しい人だって、家族だって
ここはイヤだとかって部分は確実にある。
それは当たり前のことです。
だって相手は自分ではないのだから。
だけど自分に対してもイヤだって思うことってたまにあるじゃないですか。
相手を受け入れているし理解している、そう思っていたとしても
何か壁にぶつかったときにはじめてその問題点に気づきます。
こんなところがひっかかる、気に食わない、
そのくらい人間として当たり前なのです。
一番厄介なのは「相手を理解してるつもり」になることです。
理解している、と思い込んだところで
所詮は自分の物差しで相手を見ているものだからです。
これは言葉を変えれば自分の都合、でもあります。
逆に相手のモノサシに自分の物差しを合わせようとしてばかりいると
知らず知らずのうちにストレスをためていきます。
この矛盾をわかっていない限り繰り返して何度も起こる感情なのだと思うのです。
こういうことはやはり男女関係で一番よくいわれます。
男女の違いがあるのはもちろんありますけどね。
だからこそこじれたものは修復が困難だったりもします。
男と女は一生わかりあえないと思います。
どんなにわかりたくてもね。
逆にいえばわからないからこそ
魅力を感じてひかれあうのでしょう。
相手をすべてわかってしまったら
少なくとも恋ではなくなります。
恋というのはモノサシを相手に合わせているかんじ、
愛というのは相手を受け入れる感じだってあたしは思ってます。
男女関係がいちばんわかりやすいパターンですが
人間関係すべてがそうだって思います。
でもなかなかできないからこそ宗教など、人類永遠のテーマとしてよく説かれるのだって思います。
恋愛は人生の経験のステージですよね(苦笑
それでも一緒にいたいって思うのは
友情とか愛情ってもんは
それを塗り替えるくらいの大きなパワーがあるってことだね。
憎しみの気持ち。
それが「誰か」に向かっているとき
もしかしたら本当は「自分」に向けられたものなのかもしれません。
「誰か」に自己投影しただけかもしれません。
結果的に憎しみという感情は自分で自分を苦しめてしまうものなのです。
赦すことっていうのは相手を理解して受け入れることです。
相手を受け入れてるつもりでも
いざカベにあたったとき、はじめて、自分は本当は相手を受け入れているんでなく、単に相手にあわせているだけなのかもな
なんて思い直します。
相手を真の意味で理解して受け入れているならば
人間同士対立することはないと思いませんか?
他人は所詮自分ではないんですよね。
生まれも育ちも環境も考えも違う他人なんです。
相手を受け入れることと、相手に合わせることでは
残念ながらまったく意味合いが違ってきます。
それは相手にあわせるのは自分の都合も含むからなんです。
だけど、相手を、自分以外の誰かを、
「理解しよう」という姿勢が何よりも大切なんですよね。
赦すこと、理解することっていうのは、おそらく永遠の人類のテーマだって思います。
なぜならば多くの宗教や思想というものが
愛をテーマに説いていたり、その内容は赦すことや受け入れることがメインです。
愛と憎しみはよく引き合いにだされます。
一見してこの二つは双極関係です。
でもそれって本当でしょうか?
愛の対極は憎しみではないような気がします。
憎しみの正体は恐れなんだと思うんです。
正体というより根というのかな。
恐れはもっとも原始的な人間の感情だって思うんです。
そもそも憎しみというのは対象人物があって初めておこる感情だからです。
それに相手に対してそれなりの興味がなければ起こる感情ではありません。
つまり興味のあるような相手が存在しなければ憎しみという感情はありえません。
では本当に自分ひとりぼっちになってしまったら憎しみがなくなり楽になるのでしょうか。
ひとりになったときに今度、戦わなければならないのは不安や恐れだと思うのです。
自分以外に誰かが存在しうれば憎しみの発生する確率はあるものです。
誰かを憎むことや恨むこと、許せない気持ちはとてもつらいことです。
許せないというのは結局自分がつらくなるんですよね。
でも人間が成長するために必要な感情です。
憎しみはベクトルを変えれば向上心にもなりえます。
不安は結局不安でしかありません。
よく耳にする言葉が「自分を赦すことは他人を赦すこと」っていいます。
これはどういう意味かというと
相手を憎んだり赦せないでいる自分がいる限り
いやな気持ちはずっと続いてしまいます。
相手を赦すことは自分を赦すこと。
それは、相手を赦せないと思っている自分、を赦すことです。
とても難しいテーマです。
一生かかってもできない人のほうが多いかもしれません。
憎しみをもってして自分の弱さを気付かせてくれる存在は大切です。
なぜならば憎しみは自分の弱さを乗り越えるチャンスだからです。
憎しみを消すことはむつかしいことです。
だけど相手を許せるということはうれしいこと。
憎しみを乗り越えて相手を理解しようと努力し、許そうとし、受け入れようとしていくことは
自分が成長できるかなり大きなチャンスですよね。
なかなか難しいことではありますが
チャレンジしがいがあります。
今の時代はどうしても人間関係が希薄になりがちです。
ネットなどの文字だけのバーチャルな世界だと
自分の想像や思い込みが優先になります。
憎しみが結局は自分をふりまわしていると書きましたが
ネットの場合は自分の受け取り方でどうとでもとれます。
よくブログが炎上したり
荒れた掲示板をみるとひとつのことばに対してこれだけの受け取り方があるなと
よく思ったりします。
ことばはイキモノです。
一見それは文字でしかありませんが
たとえば学校の裏サイトのように
時に誰かを死にまで追い詰めることすらあります。
ことばは暴力以上の武器にもなるということです。
だから気を付けないといけないなとときどき思います。
憎しみは自分をかえていくチャンスではありますが
憎しみは憎しみをよんでしまうことのほうが実際は多いです。
憎しみを抱いたときにすることは決して我慢することではありません。
スピリチュアルやニューエイジ系の人が憎しみを感じていないかどうか
それはあたしにはわかりません。
憎しみを感じていてもオモテに出さないように自己訓練しているのかもしれないし、
悟りを開いているのかもしれないし。
少なくとも人間として最低限、
憎しみはあると思います。
幼いころ両親に虐待されてきたりの人は
そういう感情が麻痺していることも実際多いです。
それは痛みなどの感情を「感じないように」生きてくるケースが多いからなんです。
憎しみや怒りを知らなければ、
誰かを許すことなんて決してできない。
苦しさや悲しみ、挫折などを味わってみてはじめて
誰かにやさしくできる。
自分を赦してからこそ
はじめて誰かを赦すことができたり、
自分が傷ついて苦しんで辛くなって
弱っているときこそ周りの優しさが身にしみる。
これまで知らなかった誰かの一面を知るきっかけにもなる。
何度もここで書いていることですが
魂の成長っていうものは
辛い経験なしには得られないものだと思います。
瞑想だけしてれば悟りを開いて成長できるってもんではありません。
何事も経験なのです。
人生は魂の経験の場です。
苦しみがあるからこそ
喜びという感情があるのです。
辛いことや苦しいことを乗り越えない限り、
そういったプロセスを踏んでこそ
はじめて魂の成長が実感できるものだと思うのです。
7月18日の日刊工業新聞にこのような記事があった。
市内のコンビニは軒並み営業していたという。
2日目以降は特別物資としておにぎりや水が本部から送り込まれたようだ。
おにぎりや飲料水などは種類も少なくすぐに売れてしまうらしいけどね。
他県からのフランチャイズの物流支援などもあったようで前回の経験が智恵で生きている証拠だ。
またファミレスも一部メニューをしぼりつつオープンしていたようだ。
そこの本部によると、万一に備え、全国の大半の店で貯水タンクを持っているらしい。
一方気がかりなのは自治体の体制。
食料品などは、夏ということもあって腐ってしまい捨てたものが相当今回もあるようで
雨を避け家財道具を守るなどでビニールシートを配ったものは大活躍したらしく
配布率は9割以上らしいのだけど
それを実際に使うといっても高齢者には一人でムリという問題点があるようだ。
しかし高齢化社会となるなら今後解決しなくてはいけない問題でもあるよね。
で、防災用具の中にはビニールシートを何枚か用意すべきなのだと思いました。
水とガスは今だに止まっている世帯も多い。
大量に送られてきた物資も倉庫でパンク寸前らしい。
ボランティアにしたって待ったがかかっている。
被災者が困っていてもモノが届いていても何とかしてあげたくても
「機能しない」という歯がゆさばかり目にとまる。
義捐金も「使途不明」な不透明さがかなり問題になっている。
本当に歯がゆい。
あたしのように介護をしている人も被災者には数多い。
これまでがんばって家庭介護をしてきたのに
家が倒壊してしまい施設に送らねばならない状況だってある。
ただでさえお年よりは環境が変わると認知症になるリスクが非常に高いのだ。
今回なくなった犠牲者の一人の方の家族がおっしゃっていたけど
前回の地震で環境が変わって(避難所など)認知症になってしまったらしかった。
地震でなくても病院にうつって入院するだけで1日で認知症になるケースは後を立たない。
ではどうすればよいのかといえば
なるべくこれまでのような日常に近い環境を用意することなのだけど
災害の被害にあってしまった以上難しい問題だ。
こういう御年寄りとか赤ちゃんとか
災害弱者を今後どうサポートしていくかも問題だし、
地震の揺れでパニックになって道で吐いてしまってうずくまる人も何人もいたようだ。
こうしたPTSDのケアも今後重要になってくるものだけど
PTSDのケアは早ければ早いほうがいい。
地震発生後救急車を呼んでもあちこちにまわされて
30キロ以上先のところに連れて行ったらなくなってしまった方もいたり
原発の問題も初期消火がかなり遅れた上に消防車到着がそうとう遅かったり
おまけにトラブル続出であることもわかってきた。
断層の上に原発をたてるというのはもってのほかだけど
「思っていた3倍以上の揺れだった」
というヒトコトですますのはいかがなものか。
まさにこういうところなど体制が民間でなく官というか天下り先といったかんじがする。
コトがコトだけに事態は深刻だ。
その証拠に海外メディアからもかなりのバッシングを東電はうけている。
国も天下り先の確保を考えるとどうしても見方が甘くなってしまうのではないかと思う。
届いた物資も倉庫に眠っているだけでは何の役にもたたない。
それを被災者まで届けるパイプラインというもの(ロジスティクス)のシステム化がきちんとできていないからそうなるのだ。
企業ならばリスクマネジメントにあたる部分ができていないということがよくわかる。
コンビニとか外食産業がすぐに営業できたのは
前回の問題を踏まえてロジスティクス面でしっかり機能しているというのもあるし
迅速な対応が今回ライフラインである食をつないだのではないかと思うのだ。
民間企業の場合というのは
(最終)顧客がほしいと思うモノやサービスを
思ったときにすぐに手に入れることについてしっかり学んでいる。
もしそれができなければ企業価値が下がるからだ。
とくにさきほどのコンビニや外食産業はなおさら競合が多いわけだからもともと生き残りに必死なのだ。
どんなニーズがあり、どういうときに必要か
かゆいところに手が届くようにするサービスとして向上させていく努力がみられる。
だって人的資源の枯渇という意味合いではコンビニや外食産業だってまったく同じことだもん。
こういったサービス面に対するもので以前郵便局に対して
郵政民営化の問題のときに書いたことがあったのだけど
電力会社にしても体質は「官」だ。
「官」の体質はそもそも
「どうせ潰れることはない」というかんじで危機感というものがまったくない。
どんなにムダづかいをしても何かあれば国債を発行して
国の借金を次々増やしてきたわけだから。
その国の借金は次の世代の国民が払わなければいけないわけだし。
そもそも根本的に官と民は体質が違う。
あたしはかつて2つの省庁で働いていたことがあったのだけど
そのときこの体質の差を目の当たりにした。
時間の流れも予算のありかたもまったく違うのだ。
たとえば今年度1000万円の予算があったとして
(企業ならば予算を最初から少なく設定されていたりするけど)
限られた予算の中でどれだけいいものを作るかという考えを民間はするわけだけど
官の体質は真逆だ。
あまり使い切れずに800万までしか使っていなかったとしたら
残りの200万をどうやって使っていくのかという考え方をする。
どうすれば全部使えるか、なのは
そうでもしなければ来年度の予算が減らされてしまうからだ。
そのようにかつて上司にいわれたことがあった。
今政府は急いで集権型システムから分権型システムへの転換を図ろうとしているよね。
だけどこれっていわゆる地域格差とも関わりが大きいのではないだろうかと思う。
そんなふうに問題は山積みだ。
地方分権にばかり話を政府はもっていくけど
中央省庁のスリム化(ムダ遣い対策)という
根本の問題点を摺りかえられてしまってる気がするんだけど、どうだろう。
イニシアチブが移ることで余計に複雑化してしまうのは目に見えている。
これは仕方がないことなのだろうけど
年金問題にしても官のシステム化づくりへの苦手さがにじみでているし
新潟、能登に続いて今回も物流支援に関する
ロジスティクス面での官(自治体など)の対処の仕方は実に致命的だと感じた。
阪神以降首都圏で地震がおこったり災害がこれまでなかったほうがラッキーなくらいだと思うのだけど
起こったらいったいいつまでライフラインの麻痺が続くのだろう。
想像するだけで怖くなる。
ロジスティクス面でのシステム化づくり、および管理面(マネジメント)なんかは
民間企業が国に指導すべきなのではないかと思えてならない。
今回の地震で、さまざまな分野での抜本的構造改革が必要であることが
改めて浮き彫りになった気がしてならない。
中越沖地震/小売り業界、救援物資を迅速に配送−物流機能生きる
新潟県中越沖地震で小売業には大きな被害はなかったものの、一部で全面的に営業を再開できない店舗が出るなどの影響が続いている。ただ、大手スーパーやコンビニエンスストア各社は自社の物流ネットワークを活用して地震発生から短時間のうちに現地に救援物資を配送するなど、今回も生活インフラとして機能した。
市内のコンビニは軒並み営業していたという。
2日目以降は特別物資としておにぎりや水が本部から送り込まれたようだ。
おにぎりや飲料水などは種類も少なくすぐに売れてしまうらしいけどね。
他県からのフランチャイズの物流支援などもあったようで前回の経験が智恵で生きている証拠だ。
またファミレスも一部メニューをしぼりつつオープンしていたようだ。
そこの本部によると、万一に備え、全国の大半の店で貯水タンクを持っているらしい。
一方気がかりなのは自治体の体制。
食料品などは、夏ということもあって腐ってしまい捨てたものが相当今回もあるようで
雨を避け家財道具を守るなどでビニールシートを配ったものは大活躍したらしく
配布率は9割以上らしいのだけど
それを実際に使うといっても高齢者には一人でムリという問題点があるようだ。
しかし高齢化社会となるなら今後解決しなくてはいけない問題でもあるよね。
で、防災用具の中にはビニールシートを何枚か用意すべきなのだと思いました。
水とガスは今だに止まっている世帯も多い。
大量に送られてきた物資も倉庫でパンク寸前らしい。
ボランティアにしたって待ったがかかっている。
被災者が困っていてもモノが届いていても何とかしてあげたくても
「機能しない」という歯がゆさばかり目にとまる。
義捐金も「使途不明」な不透明さがかなり問題になっている。
本当に歯がゆい。
あたしのように介護をしている人も被災者には数多い。
これまでがんばって家庭介護をしてきたのに
家が倒壊してしまい施設に送らねばならない状況だってある。
ただでさえお年よりは環境が変わると認知症になるリスクが非常に高いのだ。
今回なくなった犠牲者の一人の方の家族がおっしゃっていたけど
前回の地震で環境が変わって(避難所など)認知症になってしまったらしかった。
地震でなくても病院にうつって入院するだけで1日で認知症になるケースは後を立たない。
ではどうすればよいのかといえば
なるべくこれまでのような日常に近い環境を用意することなのだけど
災害の被害にあってしまった以上難しい問題だ。
こういう御年寄りとか赤ちゃんとか
災害弱者を今後どうサポートしていくかも問題だし、
地震の揺れでパニックになって道で吐いてしまってうずくまる人も何人もいたようだ。
こうしたPTSDのケアも今後重要になってくるものだけど
PTSDのケアは早ければ早いほうがいい。
地震発生後救急車を呼んでもあちこちにまわされて
30キロ以上先のところに連れて行ったらなくなってしまった方もいたり
原発の問題も初期消火がかなり遅れた上に消防車到着がそうとう遅かったり
おまけにトラブル続出であることもわかってきた。
断層の上に原発をたてるというのはもってのほかだけど
「思っていた3倍以上の揺れだった」
というヒトコトですますのはいかがなものか。
まさにこういうところなど体制が民間でなく官というか天下り先といったかんじがする。
コトがコトだけに事態は深刻だ。
その証拠に海外メディアからもかなりのバッシングを東電はうけている。
国も天下り先の確保を考えるとどうしても見方が甘くなってしまうのではないかと思う。
届いた物資も倉庫に眠っているだけでは何の役にもたたない。
それを被災者まで届けるパイプラインというもの(ロジスティクス)のシステム化がきちんとできていないからそうなるのだ。
企業ならばリスクマネジメントにあたる部分ができていないということがよくわかる。
コンビニとか外食産業がすぐに営業できたのは
前回の問題を踏まえてロジスティクス面でしっかり機能しているというのもあるし
迅速な対応が今回ライフラインである食をつないだのではないかと思うのだ。
民間企業の場合というのは
(最終)顧客がほしいと思うモノやサービスを
思ったときにすぐに手に入れることについてしっかり学んでいる。
もしそれができなければ企業価値が下がるからだ。
とくにさきほどのコンビニや外食産業はなおさら競合が多いわけだからもともと生き残りに必死なのだ。
どんなニーズがあり、どういうときに必要か
かゆいところに手が届くようにするサービスとして向上させていく努力がみられる。
だって人的資源の枯渇という意味合いではコンビニや外食産業だってまったく同じことだもん。
こういったサービス面に対するもので以前郵便局に対して
郵政民営化の問題のときに書いたことがあったのだけど
電力会社にしても体質は「官」だ。
「官」の体質はそもそも
「どうせ潰れることはない」というかんじで危機感というものがまったくない。
どんなにムダづかいをしても何かあれば国債を発行して
国の借金を次々増やしてきたわけだから。
その国の借金は次の世代の国民が払わなければいけないわけだし。
そもそも根本的に官と民は体質が違う。
あたしはかつて2つの省庁で働いていたことがあったのだけど
そのときこの体質の差を目の当たりにした。
時間の流れも予算のありかたもまったく違うのだ。
たとえば今年度1000万円の予算があったとして
(企業ならば予算を最初から少なく設定されていたりするけど)
限られた予算の中でどれだけいいものを作るかという考えを民間はするわけだけど
官の体質は真逆だ。
あまり使い切れずに800万までしか使っていなかったとしたら
残りの200万をどうやって使っていくのかという考え方をする。
どうすれば全部使えるか、なのは
そうでもしなければ来年度の予算が減らされてしまうからだ。
そのようにかつて上司にいわれたことがあった。
今政府は急いで集権型システムから分権型システムへの転換を図ろうとしているよね。
だけどこれっていわゆる地域格差とも関わりが大きいのではないだろうかと思う。
そんなふうに問題は山積みだ。
地方分権にばかり話を政府はもっていくけど
中央省庁のスリム化(ムダ遣い対策)という
根本の問題点を摺りかえられてしまってる気がするんだけど、どうだろう。
イニシアチブが移ることで余計に複雑化してしまうのは目に見えている。
これは仕方がないことなのだろうけど
年金問題にしても官のシステム化づくりへの苦手さがにじみでているし
新潟、能登に続いて今回も物流支援に関する
ロジスティクス面での官(自治体など)の対処の仕方は実に致命的だと感じた。
阪神以降首都圏で地震がおこったり災害がこれまでなかったほうがラッキーなくらいだと思うのだけど
起こったらいったいいつまでライフラインの麻痺が続くのだろう。
想像するだけで怖くなる。
ロジスティクス面でのシステム化づくり、および管理面(マネジメント)なんかは
民間企業が国に指導すべきなのではないかと思えてならない。
今回の地震で、さまざまな分野での抜本的構造改革が必要であることが
改めて浮き彫りになった気がしてならない。
これはあえてLeiya+ismにいれました。
というのもあたしの思想や哲学の多くが河合隼雄氏の影響を受けているというのがあります。
河合隼雄氏と数年前なくなられた小此木啓吾氏は
あたしの中にある考え方の土台を作った先生方とでもいえます。
心理学に詳しい方ならおわかりだって思います。
河合隼雄氏は日本のユング派の第一人者です。
小此木啓吾氏はフロイト派です。
要するにあたしの中の心の土台はユングでありフロイトなんですよね。
小此木先生は慶応の教授でもあったのですが個人でも千駄ヶ谷に医院を開業されていまして
いつもは近くのクリニックに通っていましたが
どうしても小此木先生に会ってみたくてクリニックのドアをたたきました。
指名料というか設定は高かったんですけどねw
診察室に入るなりあたしは、おじいちゃんの先生(小此木先生)に
「先生のファンなんですっ!!!!」
といって握手を求めたことがありました(笑
変わり者で恐縮です(汗
その小此木先生がなくなられて、ひとつの時代が終わったなと思ってしんみりしていたんですけど
河合隼雄氏も逝かれてしまいましたか。
本当にひとつの時代が終わったなという感じです。
その昔ウツがひどかった時代に河合隼雄氏の本はよく読みました。
そんな読んでいた本を列記します。
長くなるので感想は書きません。
ここでいろいろ書いていますが
あたしがスピリチュアルであってスピリチュアルでなかったり
オカルトであってオカルトでないって思う方も多いと思いますが
ああ、なるほどねって本のタイトルで少しは垣間見れるかもしれません(笑
あたしの思想も哲学もすべてはユングとフロイトからきていることがわかると思います。
気づけばこんなに読んでいました。
10年以上は読んだんだけどね(笑
当時、ウツでどんなに治りたかったか、救われたかったか
心理学を読むことで自分を知ろうとしてました。
自己探求のために心理学の本を読んだわけですが
今のあたしの道はこのときに敷かれていたんだなって
リストを眺めてみて感慨深く思いました。
河合先生のご冥福をお祈りいたします。
というのもあたしの思想や哲学の多くが河合隼雄氏の影響を受けているというのがあります。
河合隼雄氏と数年前なくなられた小此木啓吾氏は
あたしの中にある考え方の土台を作った先生方とでもいえます。
心理学に詳しい方ならおわかりだって思います。
河合隼雄氏は日本のユング派の第一人者です。
小此木啓吾氏はフロイト派です。
要するにあたしの中の心の土台はユングでありフロイトなんですよね。
小此木先生は慶応の教授でもあったのですが個人でも千駄ヶ谷に医院を開業されていまして
いつもは近くのクリニックに通っていましたが
どうしても小此木先生に会ってみたくてクリニックのドアをたたきました。
指名料というか設定は高かったんですけどねw
診察室に入るなりあたしは、おじいちゃんの先生(小此木先生)に
「先生のファンなんですっ!!!!」
といって握手を求めたことがありました(笑
変わり者で恐縮です(汗
その小此木先生がなくなられて、ひとつの時代が終わったなと思ってしんみりしていたんですけど
河合隼雄氏も逝かれてしまいましたか。
本当にひとつの時代が終わったなという感じです。
その昔ウツがひどかった時代に河合隼雄氏の本はよく読みました。
そんな読んでいた本を列記します。
長くなるので感想は書きません。
ここでいろいろ書いていますが
あたしがスピリチュアルであってスピリチュアルでなかったり
オカルトであってオカルトでないって思う方も多いと思いますが
ああ、なるほどねって本のタイトルで少しは垣間見れるかもしれません(笑
あたしの思想も哲学もすべてはユングとフロイトからきていることがわかると思います。
魂にメスはいらない―ユング心理学講義
こころの処方箋
ココロの止まり木
カウンセリングの実際問題
無意識の構造
母性社会日本の病理
境界例
境界例・重症例の心理臨床 (心理臨床の実際)
臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知
日本人とアイデンティティ―心理療法家の着想
家族関係を考える
父性原理と母性原理
臨床教育学入門
日本のフロンティアは日本の中にある―自立と協治で築く新世紀
「老いる」とはどういうことか
心を蘇らせる―こころの傷を癒すこれからの災害カウンセリング
ユング心理学と仏教
日本の精神性と宗教
神話の心理学
神話と日本人の心
ユング心理学と東洋思想
聖地アッシジの対話―聖フランチェスコと明恵上人
日本神話の思想―スサノヲ論
宗教を知る 人間を知る
宗教と社会科学
岩波講座宗教と科学 (2)
思想としての死の準備―いのち・ホスピス・ことば
こころの生態系―日本と日本人、再生の条件
ユング心理学入門
フロイトとユング
臨床心理学ノート
「日本人」という病
日本人の心のゆくえ
心にある癒す力治る力―心理療法の現場から〈下〉
無意識の世界 (こころの科学セレクション)
いま、「いのち」を考える
気づけばこんなに読んでいました。
10年以上は読んだんだけどね(笑
当時、ウツでどんなに治りたかったか、救われたかったか
心理学を読むことで自分を知ろうとしてました。
自己探求のために心理学の本を読んだわけですが
今のあたしの道はこのときに敷かれていたんだなって
リストを眺めてみて感慨深く思いました。
河合先生のご冥福をお祈りいたします。