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あたしは29歳のときに怖くて仕方なかった。
30歳になるのが怖かった。
長澤まさみが「ハタチになるのがイヤで泣いた」というけど
ハタチになる前あたしはどんなだっただろう。
堂々と酒が飲めるのがうれしくもあり(笑)
だけど責任を持たされることが不安でもあった。
先日国会に提出されたものの中で20歳成人を18歳成人にしようという試みがでている。
おそらくはきっと税収がらみが大きいのかもしれないけど。
だけど実質的に責任をもたなくてはいけないと自覚するのって30歳が節目なのかなって思う。
30歳はいわば第二の成人式みたいなものだ。
会社に勤めていればそれそろ責任のある役職について
誰かを指導していかないといけないし
オンナでもあたしみたいに結婚してない人も結構いるわけですが
家庭に入るというのは、これまた責任があるわけだよね。
まぁ責任を感じているのかどうかは別問題ですけどw
身の回りの女性の友達は29歳のときに結婚する人ばかりだった。
おそらく女性としての価値が30歳になったらなくなってしまうのではという恐怖感があるのだって思う。
それもまた年齢の観念に潜在的にしばられているいい例だと思う。
そのあたりなんか諸外国からみたら滑稽に思われるのだろうなと思う。
だって30歳を越えてもキレイな人はたくさんいるし
おそらくはその人の美学の問題というか、
自分がキレイでありつづけたい、あるいはキレイになりたいと思って努力すればいいだけの話だと思う。
むしろプラスして内面をキレイにしていくことも大切になってくる。
内面的なもの外見的なもの、それぞれ努力しなければいけない、と思うかもしれないけど
努力していけるということは、とり方はまちまちだけど
ある意味幸せなことなのだろうとも思うのだ。
それだけ自分に対して何か費やすということはステキなことだって思うのだけどどうだろう。
あたしが努力できてるかどうかは別としてねw

かつて30歳を迎えた友人に対して
以前書いていたBlogに「30歳のイニシエーション」というコラムを執筆したことがあったのでそれの一部を以下に書きます。

何かを変えることは勇気がいる。
だけど、変わらないっていうことも、
逆に勇気がいるし大切なこと。

人間は変化する生き物だ。
そうしていながらも絶えず「変わる」ということを望んでいる。
それでいながら変わらないことも同じように望むのだ。

人間は不可思議な生き物なのだろう。

変わらないことも変わることも、
変化というのは成長には大切だ。

変わらないもの。

つまりそれはその人の本質。
無意識的な部分がメイン。
そして変わりたいと願うものというのは、
自分の成長とか、その時代とかにみあった生き方だったりする。

今日は友人の誕生日だった。
とりあえず30歳っていう節目の年。
だけど何が変わるかっていうと、実際何も変わらない。
昨日まで20代で、
ハイ、今日からあなた30歳だからね、
っていわれたってピンとこない。

あたしが20代だったころ、
この30っていうのは本当恐怖でしかなくって
だけどそれは、自分に潜む不安の塊だとか自信なさとか
そういう鬱屈したものだったって思う。
(略)
守られてきたけど自由を常に10代の時は求めて大人になりたがり、
成人して働いた途端社会に投げだされたわけだけど、
今は就職難てこともあって職につきにくい時代。
そんな中30代になり今度は家庭をもつことや子供をもつことで
精神的な独立を迫られるわけなんだよね。
今は未成年に対してあまりに過保護になりすぎてるって思う。

かつて「素敵なオトナ」がいた時代は
自由とは逆に律するものがあまりにも多すぎた。
だから自由の意味は自分の行動に責任をとることだってわかってた人が多かったと思うんだよね。

あたしはミソジに怯えてた。
それは日本人独特の年代のラインだ。
20歳すぎて社会人になり(今はニートが多いけど)
30のラインで精神的独立を求められるのをわかっていた。
それは家庭や子供をもつことや仕事に対する人生の責任。

だから怖かった。

オトナになることにあんなに憧れたのに
オトナになることが怖くなってしまった。

過保護によってある程度律されることの中に
安住の地を見つけてしまったのかもしれない。

自由。

幼い頃は成人したら手に入るものだと信じてた。
だけど実際ふりかかってきたのは責任やプレッシャー。

自由になることは責任を負うこと。

そして自由を得ることは責任を負いつつ
同時に何かを手放すことも辞さない時もあると知った。

そう。

自由というのは
容易くは手に入らないものなのだ。

30歳は、きっと「実質的な」成人式に近いくくりなのかなって思う。
だけどそれは晴れやかな祭典っていうイメージでなく、
30歳の場合はある意味通過儀式っていうか、
イニシエーション
っていうイメージがある。
その精神的自立のプロセスとか、
つまり責任を負うとか、そういうことが怖かった。
だけど実際、何がいきなり変わることっていうことがない。
逆に言えばそれが怖いんだけどね。
人生はミニマルなんだって思う。
ちょっとずつ変化していくの。
ちょっとずつだから最初は何がどう変わったっていうのはわかりにくいんだけどね。

肩の力の抜き加減が30歳になって、もっとわからないといけないのかなって思う。
だけど、自分の芯にあるものは持ち続けながら。
風が変わって、いつの間にか、安らかな中に、自分を見出したいと思う。
心の体感温度は自分の中にある。
心の平和も、幸せも、豊かさも自分の中に見出して感じ取るもの。

あたしも含めて、世の中とか人間関係とか、
生きにくいって感じてる人、特に、
心の平和が訪れることを祈ってます。


日本というのは不思議な国だ。
たとえば女優とか俳優が年齢を詐称したり、
先日も久本雅美が年齢をサバよみしていたことが記事になっていて
その前も夏川純がサバよみしていたことが話題になった。
「そんなの別にいいじゃん」
て思ってたんだけど
アイドルの場合はそのあたりは致命的なのだろうか。

たとえば日本人にナンパされたときってたいてい年齢をきいてくることが多い。
外国人から先日も声をかけられたのだけど
彼らからナンパされるときって年齢を聞かれない。
外国人がよくて、という話ではもちろんない。
なんで日本人は年齢にこだわるのかということね。
まぁあたしもこだわってしまう部分は強いのは否めないのだけど
その差をダイレクトに感じたのがMySpaceとかBuzzNetといった
海外のSNSだ。
海外のSNSは年齢をフツーに公開する。
日本ではMySpaceはソフトバンクがやっているようなんだけど
日本では年齢の公開を選べないと難しいのではないかと思う。
MySpaceあたりでは「年齢を隠せないのか」という日本人からの要望がよくヘルプなんかに載っている。
実際のところ海外の人はそういうことを気にしないからこそ
あえてみんな公開するのだって思うし
逆にそういってくる日本人を不思議に思っているだろう。
それは民族的なものなのか文化的なものか、
理由はさまざまだろうけどね。
ただ日本よりアメリカなんかのほうが「個」を大切にしていて
日本人の場合は集団や何かに属するほうを大切にしている気がする。
いわゆる集団社会というヤツだろうね。
それは日本人が保守的である表れのような気がしてならない。
日本でも東京にいると保守的なものってまったく気にならないけど
地方に住む友達は、とても保守的だからイヤだと話していた。

前からずーーーっといい続けているけど
あたしは年齢で人間の価値をくくるというのがどうも理解できない。
たしかに「この年齢ならこれくらいわかるはず」というような
自立とか個人の成長とか、そういうくくりは少なからずあるものの
そもそも、会社も昔は年功序列制だったり、
体育会系とかでは先輩後輩がハッキリしていて
小学校のときはフツーに近所のおにーちゃん、おねーちゃんだったのが
中学に入ったとたん「先輩」ってなってしまう。
こういう年功序列的な社会的背景があるのかもしれないけどね。

目上の人に丁寧な言葉をとかそういうのは
社会的なことというものよりは「道徳観」やマナーなわけであって
目上の、というよりかは「初対面の人には丁寧な」ならわかるのだけど。
礼儀とか秩序をいっているうち
いつのまにか年齢の問題になるのだろうか。

今回の長澤まさみの場合はおそらくアイドルとしての価値=年齢だということでくくってしまっているのだろうし、
実際日本ではそういう傾向があるのも事実。
そのあたりも海外の事例からして違うなって思う。

確かにそんなことばっかいっていたら日本に住むなって話になってしまうのだけど
でも、日本は好きです(笑)
だけどそういう国民性みたいなものがどうもなじめないというか
みんながみんな同じ考えをもっている、同じ方向を向いている
っていうような集団的なものが
あまりに保守的に感じてしまってなじめないのかもしれませんね。
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先日の記事でロハスを小馬鹿にしたことを書いたわけですが(笑)
なんだかバックリンクされたり、検索されてる言葉っぽいんで
またちょっと書いてみるとするかw

あたしは別にロハスを否定はしていないんだな。
「環境問題意識」というのが一過性の流れになってることが一番の問題なのであって。

まだこのコトバが流行であるならば、おそらくはそうだ、
「セレブ」ってコトバからカナリ流れてきてる気がするんだけどどうだろうか。

日本でセレブというコトバがはやりつつある時期に「ローハス(Lohas)」というコトバが生まれたわけだよね。
Lifestyles Of Health And Sustainabilityの略がいわゆるLOHAS。

アメリカの調査機関NMIが、LOHAS層を「環境と健康に関心、社会に対する問題意識、自己啓発・精神性の向上に関心が高く、実際の行動に移す人々」と定義
日本では、「健康と環境を志向するライフスタイル」と意訳され、スローライフやエコに続いて広まった。一般的には、健康や癒し・環境やエコに関連した商品やサービスを総称してロハスと呼び、ロハス的な事・物に興味を持つ人をロハスピープルと呼ぶ。


とWikipediaにはあります。
アメリカのそれと方向性が違う気がしてなりません。

日本のロハスってそもそも企業との結びつきなわけじゃない?
要するにロハスにとびついておしゃれを気取ってみても
企業に商品を買わされてるだけという見方だってできるわけだ。
既存の企業が環境問題に取り組んだ結果、ロハスブームの流れで取り上げられることと
ビジネスのマーケットとして最初からロハスを選ぶことでは
企業理念のあり方が違うと思うのだけどどうだろう。

ロハスというコトバの前にはエコってコトバがあったわけですが(もちろん今でもある)
さらにその前には省エネってコトバがありました。
省エネってコトバは思い切りエネルギー節約っていうのが丸出しですが(笑)
だからこそ貧乏くささやら垢抜けないかんじがあった。

エコロジーは「地球を大切にしよう」
という、これまでの
「家計を大切にして地球も一緒(ついでに)に大切にする」
っていう動きが、エコというコトバでちょっぴりグローバルになった。
これらはあくまでも個人行動というかんじのイメージでしたよね。
ロハスというのは企業中心という感じが、要するにビジネスのニオイばかりどうしてもあたしにはかんじられて
商業主義的なニオイがプンプンしてきます(笑)
話はそれるけどスピリチュアルはあたしも好きですが
ビジネスだなというものが相当あります。

たとえばスピリチュアルではないけど例にとって見てみよう。
「こんなロハスなオーガニック化粧品がありますがどうですか?^^」
とかっていうコトバにロハスを気取る人たちはうまくのせられるわけだ。
そもそもオーガニック基準というのはアメリカのそれとEU諸国とオセアニアでは違ってくるのだ。
要するに何をもってしてのオーガニックかということ。
いくら農薬、化学肥料を一切使ってないアロマオイルですといっても
それがオーストラリアのものだとしたら生産地の大気汚染度までカウントされる。
しかし生産されたものが基準とされる土地にない場合もかなりあって
そうなるといくらいい製品だとしても
「オーガニックですよ^^」
などと謳えないのが現状なのです。
つまりどういうことかといえば、
「オーガニック」という、肩書きだけに振り回されてるのではないかという意味。
品質がいくらよくてもオーガニックじゃないなら意味がない(買わない)
というのは、根本な考えがちょっと違うのではないかという意味ですね。
そういう「オーガニックだから安心」と思い込むのは、たとえていうなら
「デザイナーの彼と結婚をきめました★」
って、それは彼が好きなのでなくて、デザイナーという肩書きが好きなだけ、
というのとまったくもって同じでしょうねw
要するに「彼」にデザイナーという肩書きをそえているところなのか、
好きになった彼がたまたまデザイナーだったのかの違いねw
日本人はブランドもんや肩書き大好きだからさw
中身で勝負できない、ブランドや肩書きに頼るのは
それに対する自信がないからではないの?
と思ってしまいます。
オーガニック基準から話がそれたけど
自分の五感でよいと思ったなら、
べつにオーガニックとかにこだわらなくたっていいじゃないっていうことですよ。
ロハスブームに乗る人たちは、誰かがこういったから、雑誌にいいってあったからこれがいいという人が多いのではないかって気がしてしまうのですが
そのところ実際はどうなのでしょうかw

*

日本ではヨガがはやってから結構たちます。
これもまたインドでなくて海外のセレブがやってるからということでいろいろなメディアでとりあげられた。
確かにヨガは続ければカラダにはよいものだと思うし
否定してない。あたしもやるもん(笑)

日本ではロハスに密接なコトバとして「シンプルライフ」というものが思いあたる。
かつて「節約生活」といっていたものをおしゃれにしていこうという流れでなのか
いつのまにか節約ではなくて「シンプルライフ」というなんとなく美しいコトバになっていた。
「スローライフ」というコトバもあるよね。

「やっぱシンプルが一番^^」

という通販カタログをこれまでどれほど目にしただろう。
セレブとシンプルっていう言葉は、いってみれば真逆のイメージ。
だけどその中枢にあるものがロハスである気がするんだな。
そこにまたビジネス臭を感じ取ってしまうのだけど(笑)

たとえばヨガと結びつくであろうコトバは、その特質(精神性)から
スピリチュアルやヒーリングとの結びつきが強い。
だから彼らがいわゆるシンプルライフを実践しているのはうなづけるのだ。

ヨガはそもそもアーユルヴェーダのうちのひとつともいうべきか
インドの伝承医学であったりインド哲学だったり
要するに予防医学であって、
「病気にならないカラダづくり」のためのものだ。
たとえば岩盤浴とヨガとアーユルヴェーダをあわせたサロンとかいろいろなものを一緒にしたのが日本にはあるけど
アーユルヴェーダは奥が深い。
というかインド哲学そのものが奥が深い。
マクロビオティックにしてもそもそもは日本古来の玄米食や粗食なわけだ。
それが逆輸入されて日本で流行するっていうおかしな現象がおきている。

一方もともとヨガが好きでやっている人ならわかっていると思うんだけど
ヨガって瞑想とか呼吸法とか自分を内観することが大切なわけだよね?
だけど日本でロハスを一過性の流行で追う人でヨガをやる人は
だいたいがそこまでする人はいない。
それなのに自分をヨギーだという人すらいる。
ロハスもヨガもカタチだけしか追わない。
要するに日本のロハスというものは中身がないことが多いっていうことなのだけどね。
おそらく日本でロハスを始めようとした方々は違ったのだろうけど
日本では「消費者の一人」という位置づけしかない人が多いと思うのだ。
意図しているものと潮流が変わってしまったのかもしれないが。
つい先日も書いたけど
要するに流されてばかりの人が多いということだ。
そして、同じコトを書くけど、
流されることと流れに乗ることは意味が全く異なるのだから。

日本ではそんなふうに、
セレブブームとシンプルライフとが対等してあるイメージで
中枢にロハスがあって(というよりはすべてひっくるめて大きくくくってる曖昧な位置にある気がする)
ヨガとヒーリング、スピリチュアルブームが結びついていて
もしくはオーガニックとこれらが結びついていて
オーガニックは食育とも結びついている感じがある。
ヨガとはデトックスやアンチエイジング、ダイエットや美容なんかとの結びつきも深いわけであって
要するに健康ブーム(産業)の絡みが濃い。
さらにそれらは各種サロンやエステといったビジネスと結びつきがある。
何より企業がこれらと見事にむすびついてる感じがするんだな。
要するにとっても大きなマーケット、いわゆる一兆円市場というわけだ。

スピリチュアルブームは以前も話したけど、
下手したらどこぞの宗教とか霊感商法とのむすびつきがある。
(参考サイト)
霊感商法の実態
警視庁 霊感商法

もちろんスピリチュアルやヒーリングが悪いというものでもないし
癒しは必要なもの。
だけどいつのまにか「自分に対する癒し」というのを
商品とかサービスとかっていうお金を払うものというふうに変わってきてしまったわけで
今水(ミネラルウォーターも)がお金を払うものだったり、
心の悩みを信頼のおける誰かに話すではなく
カウンセラーなんかにお金を払ってするのと非常に似ている。
(人間関係の希薄化であるのが大きいけど)
「癒しというサービス」をわざわざ買っているのは
忙しくなってきて心に余裕がなくなってしまってる典型的な表れなのだろうね。
自然が追いやられて人工のものであふれていたり
自然の場所にいっても人ばかり(=ゴミばかり)あふれてしまっていて
ちっとも癒されずに逆に疲れただなんてよく聞く話。
時間をさいてそういうところにいくのは
自分を癒す時間を買っているともとれるよね。

余談だけど、毎週、ダンスに行くのにとある風俗街を通るのですが
そっちのほうのサロン(笑)でも看板に「癒し」ってあるのが結構このところ多くて(笑)
男性も、癒しを求めてるのかって思いました(なんかソレ違うけどw)

要するに何がいいたいかといえば
ロハスというのは「自己満足」を前提に企業が作り上げているかんじがするのがいかにも商業的ってかんじなので
個人的にそういうのって好きじゃないわけですよね。
さっきオーガニックの基準についてちょっと書いたけど
ロハスな人は地球に優しいものが「おしゃれ」でないと!っていうわけでしょ?(そもそも定義からすれば)
そうでないものは「貧乏くせーなw」ってわけじゃない?
そういうのってどうよ?って思うのですよね。
何度もいうけど「おしゃれライフよ★」と口に出したところで
すでにおしゃれじゃないよねw
「せいぜいおしゃれライフでも満喫してくださいww」
ってかんじになりますよw

ロハスをマーケットにしている企業さんは、
商品を買わせることだけ重点を置かないで
もっと環境問題とか、それをどうすれば継続していけるか
きちんと核心部分をしっかりしていってほしい。
そうでないと本当に売り上げ重視でビジネスだけに走ってしまったり、
一過性のもので終わってしまうだけだから、そういうのは残念なことだって思います。
確かにビジネスにする以上、生活がかかってくるので
売り上げは最低限は必要なのはわかるのだけどね。

そういう考えは拡大解釈なのかな、とも思いますが、
だけどそういう視点もあるということを頭のどこかに残しておいて欲しいなって思います。

確かにあたしの好きなものをいっていけば結局はロハスじゃないか!
といわれたとしても「あたしは違いますから!ww」っていいたくなるのよね。
あたしもアロマも好きだし、ヒーリングもスピリチュアルも大好きだけど
そういう面で矛盾をいろいろ感じたりしていて、
仕事に将来したいと思うのにいろいろ知ってしまうと胸のつっかかりがどうも取れないんだよね。

それにしても今年の日本はラニーニャ現象による猛暑らしいし水不足も懸念されてるみたいだね。
地球温暖化とか、異常気象だなんて、もう異常じゃないんじゃない?ってくらいに当たり前になってきてるのが怖いよね。

環境問題をもっと考えるべきっていうのは
ロハスピープルだとか一部の団体だとかって特別な人だけが語るものではないと思うのよ。
だってなんだかんだでそういう自然や地球の恩恵を受けて生きているのだからさ。
つまり結局は個人個人の取り組みなわけだから。
もちろん企業が取り組めばかなり大きいですよね。

先日何かで目にしたけど
讃岐うどんの排水が環境汚染の問題になっているとか。
そういう小さな積み重ねって結局大きいのであって
何かに強制される前に自分から少しずつやっていくものだよな、
と思いました。

そして何よりおまけ?としてここにはりつけますが
今週YouTubeで有名になった?動画ですが
先日の愛知立てこもり事件のマスコミのマナーの悪さがUpされていました。
これを見た人も結構いるかもですが、
環境問題を報じるであろうマスコミがこんなじゃダメよねw
だからマスゴミっていわれんだよwwww



[関連過去ログ]
スピリチュアル・ブームとマインド・コントロールの関連性
ねんどでロハス大作戦w
毎週水曜日はラテンの日。
おばーちゃんと夕食をすませて片付けを終えて寝かせてから家をでる。
従って帰宅が夜中になる。

夜0時すぎ、寝静まった自宅商店街付近をひとりのおばぁさんがカートというかスーツケースみたいなのあるでしょ?
それをもってとまっては歩き、止まっては歩きしてたの。

この近所も年配が多くて、時々徘徊老人といわれる人もいる。
名札をつけていることが多いけどそのおばぁさんはつけていなかった。
埼玉に祖母の妹でやはり80歳に手が届きそうな年齢の人がいますが一人暮らし。
もし認知症になって一人暮らしだとしたら
家族の手によって名札なんてつけることはないだろう。

あたしはそんなことを考えてそのおばぁさんがいるところの道をいったん曲がって入り、そこにあった販売機で買い物をしてるふりをして数分考えた。

よし、行こう!と思い、もうそのおばぁさんが過ぎて歩いていってしまってることをどこかで願いつつ
その歩いていた付近まで行ったら銭湯が昔あったところでずっと立っていた。

状況がよめないこともあって、しかも夜であることも手伝い
あたしは一度そこまでいったのに引き返してしまいました。

自分がふがいなくて仕方ない。
もしそのおばぁさんが困っていたら、何か手助けできたかもしれないのに、
そのおばぁさんが認知症だとしたら話が通じない。
逆に困っていて、家族と喧嘩とかして家出とかしたならば(スーツケースだったので)
うちにとめることなんてできない。

変な話、小さい頃、子猫を拾おうとして家に持って帰って「うちでは飼えないから」といわれて泣く泣く返したことを思い出してしまった。
子猫とかいうレベルじゃなくて人間だけど
あたしは小さい頃から何一つ変わっていないじゃないかと自分を責めた。
だってこれでも去年から病院とかケアセンターとかで
祖母だけでなくいろんな年配の人と接してきて、
最近では高齢者心理学の本も何冊も読んでいるのに
ほかの人たちよりはわかっていると自負していたはずなのに、
あたしは何もできなかった。
いや、何もやろうとしなかった。
そんな自分がとってもふがいなくて仕方なく
悲しくなって帰り道涙がこぼれてきた。

だけどそれ以上にそのおばぁさんのそばを、それまで何人もの人が通り過ぎていったのに
みんな何一つしていないじゃないか。
なんでみんな平気な顔をして通り過ぎることができるのだろう。

...いや、あたしもその一人なのだ。
そんな自分がいやで仕方ない。

祖母が以前まだ歩けていたとき、外でころんで立てなくなってしまったらしく
だけどみんな通り過ぎても誰一人として助けてくれなかったよと話していたのを思い出した。
みんな自分のことで精一杯なのはわかるけど
逆に優しくする人は詐欺とかくらいしかなんでいないのだろうって思う。
こんなんじゃきっと、高齢者の人たちの心はもっともっと硬く冷たく閉ざしてしまうだろうに。

第一この国の政治というのは、というと話が大きくなるけど
子供にはかなり甘い政治になっている気がしてならない。
過保護になっているわりには子供をちっとも守れていない。
だけど「地域格差」というのもかなりあるし問題になっている。
この格差というのは地域に限ったことではないけど。

うちの地区では中学生まで医療費はタダ。
そうやって子育て支援ということをして少子化対策をしているけど
老人からは税金をかなりとる。
というか一般サラリーマンなんかからもかなりとるけど。
介護保険を若年者からも徴収する法案が出ていたけどつい昨日、否決された。
一方今日のニュースでは57歳の人が90歳の老人の家に
「薬を飲む水をください。隣では断られた」
といってあがりこんでお金を盗みつかまっている。

そもそもいったい誰にとって都合のいい政治なのか。
政治家にとって都合のいい政治でしかないわけなのだから。
「孫の世代のために」「未来の日本のために」
といいつついったいどれくらいの政治家がそれを実行できていることだろうか。
政治不信とか世論を変えていかない限り
自分のことで精一杯な人たちの心なんて動かせないと思うし
こういった地域格差はますます激しくなるだろう。
財政破綻だって夕張に限らずでてくるだろう。
だって高知の東洋町に核廃施設応募というのも結局は補助金がもらえることが発端だったわけだし
実際町長選挙では賛成派と反対派が分裂した。
ちなみに高レベル放射性廃棄物の放射能は半減するのに1600万年かかるといわれている。
要するに悪い言い方をすれば町を売ったわけだけど
それだけ地域格差が問題になっているのが浮き彫りになったわけだ。

*

そもそも昔は、昔といっても、あたしが生まれる前かもしれないけど、
たとえば水戸黄門じゃないけど(まぁあの人はいろんな武勇伝があるけど(笑;)
あんなイメージで御年寄りっていうのは「智慧」をもつ人としてあがめられてきたと思うんだ。
それをコトバで表現するとしたら「翁」だろう。
これは男性の老人、つまりおじいさんに対する「敬称」だ。
昔の老人には「智慧」があった。
それをまわりは敬うことも多かった。
確かに昔は「姥捨て山」といわれるものがあった。
まぁ「まんが日本昔話」で育った世代なんですけどね(笑)
今考えたら「姥」はおばぁさんにあたるわけで
「姥」は捨てられておじいさんは「翁」と敬称される人もいるというのは
男尊女卑が現れているってことなんだろうけどね。
(よくわからないけど)
こういう高齢者を敬わない風潮は、何度となくここやあちこちで書いているけど
核家族が原因のひとつだって思うんだよね。
父の日が近いけど「父親不在」といわれているのも
結局は父親が子育てに参加しない以前に働きすぎで家にいないことが多いわけだし、
今は母親も働いていていないことが多い。
要するに両親が家にいないことが多い。
朝食を一人で食べたり、子供時代から一人でいることが多い。
誰もいない家で一人で出来合いのごはんを食べて、
せいぜいゲームかパソコンをやって塾に行くパターンだろう。
これでは心が豊かになるはずないよね。
勉強勉強というのではなく、といってゆとり教育になったけど、今度は「学力の低下」として再び勉強しろという。
だけど両親は相変わらず家にいないのならばこの先子供たちはどうなってしまうのだろう。
それでいて少年犯罪は、とか近頃の子供は怖い、というのはちょっとオトナのご都合主義なのではないか。
あたしは子供がかなり苦手なのですが、だけど彼らに同情はしています。
両親が「働かねばならない」状態=給食費すら払えない経済事情があるのならば
それはさらに上の問題=政治の問題ということになるわけだろうから
今首相が教育問題をメインに取り上げているわけだけど
これは慎重に論議すべき内容であるだろうね。
ワタミの社長がきちんと決まらなければ「委員会といいつつ何やってるんだといわれるのではないか」といっていたけど
あせってしまっては仕方ないだろう。
まぁ今の首相はデマゴーグ(demagogue:扇動政治家)というかんじじゃないのでこの先手腕が問われるね。

食育が結構いわれているけど
食事は「一緒に食べる人」というのはかなり重要だって思うんだ。
「クチに入れる」という行為はフロイト心理学からいっても重要なこと。
いくら「個の時代」とはいえ、子供のときからずっと一人なのはかわいそすぎる。
密に接してあげるべきだって思う。
普段ほおっておいて下手に密に接しようという「親のフリ」をしてしまうから
子供はキレて親を殺したりするケースがでてくるんだって思う。(もちろん一概にはいえないけどね)
あたしと父親が祖母の介護をしているけどほとんどあたしが密に接しているし介護をしているので
祖母が問題行動を起こしたときに父親が上から「ダメだ」といってもやはりきかないかウツになるかであって
いつも一緒にいるあたしのいうことしかきかないのだ。
要するに密に接してコトバを聴いてあげることは祖母の気持ちがわかっているかどうか、ということでもあって
これは子育てとも一緒、いや、
人間の心理がそもそもそうなのだろうなと思う。
こんなふうにあたしはいつも祖母と密に接していたからこそ、今こうやって介護を続けていられるのであって
離れていたらきっと面倒をみていなかったかもしれない。
だからあたしは核家族の問題と食事の問題が心のゆたかさにつながるのだってずっといい続けているんだ。

摂食障害の多くの原因は母子関係にあるといわれているし、
それがダイエットなどを契機にふとしたときからはじまってしまうことが多いのだから
小さい頃の親子関係はとっても重要なのだよね。

幸せっていうのは結局は心の豊かさだって思うんだ。
欲望を満たすというものは幸せではなくてどちらかといえばエゴイズムだって思う。
心が豊かでない人が増えれば真の幸せからは遠ざかるのも無理はないだろう。


先日平均寿命が発表されて、女性は世界第一位で男性は世界第二位だったという。
今は「長生きして何が面白いのか」という傾向にもなってきている。
アンチエイジング=抵加齢ということだけど
この「アンチ」というコトバから、年齢を重ねることがよくないという意味合いにもとれる。


「近ごろおかしい」といわれて久しい。
みんな気づいてるけど気づかない振りをして生きている。
いや、そもそも、もっと前からひずみはあったのだ。
それに気づかないふりをしているうち、本当に気づかなくなってしまって麻痺してきてるんだ、みんなが。

流されて生きていくとラクだと思う人が多い。
だけど「流される」生き方と「流れに乗る」生き方ではまったく意味合いが違ってくる。
そもそも「自分勝手に生きる」ことと「自由に生きる」ことは意味が違う。
自由には必ず「責任」がある。
楽なほうに楽なほうに「流される」道を選ぶと人間は堕落してしまう。
人間だからこそ理性を保って生きている。
責任転嫁をする人と、人の責任を必要以上に被ってしまう人。
誰かの責任を必要以上にかぶって自殺に追い込まれている人のなんと多いことか。
そんなふうに二極化しているのかもしれない。

今は多くがきっと気づかないうちに、いや、気づこうとせずにみんな流されて、
嫌なことには目をつぶって生きているんではないかって思う。
そうでもしないと自分が自分として成り立たない、
それがいわゆるストレス社会の弊害なのかもしれない。

そして、あたしも結局「流された」うちの一人なのだ、
本当、今日はふがいない気持ちだ。

心がとっても、痛い。
そうしてまた、痛みに目をつぶって
ごまかして生きていくんだよね。
先日友人から連絡があった。
その友人は拒食症なのだけど
最近引越しをして、また症状が結構でてきてしまい
精神科にいってはみたものの
結局思うようなものではなくてがっかりしたという内容がきた。
それ以前も別の友人で過食がとまらず買い物依存で困っているので
精神科受診したのだけど思うような答えをもらえず
どこかいい医者知らないかという連絡だったし
その前のさらに別の友人にしても
希死念慮がとまらず困っていて毎日が憂鬱だから精神科にいってみたけど
結局いまだに何も変わらないしクスリが増え続けるだけという。

さらっとだけで3人の友人の状況がでてきてしまうくらいに
近年心がツライ人が身の回りに増えている。
心が苦しいといって過去友人にメールをいただくことが少なくとも10人を軽く超える。
しかも皮肉にも、あたしが治りかけのときくらいになって
そのような人がいっきにふえてしまったということだ。
もしくはほぼ治ってから知り合った、など。

先日連絡が来て会った友人はこういう。
精神科にいって話したけど
不眠症だといったのだけど睡眠薬を出してくれなかったと。
話も半分にしかきいてくれなくて
こうしろああしろとだけいって、はい、次ってかんじ
といっていた。

彼らがあたしに、ほかの人にはなかなかいえない心の状態を話してくるのには理由がある。
あたしでなくてはならない、という理由。
ではなんであたしでなくてはいけないのか。
かつて10年以上精神科に通い続けて
今はクスリを飲んでいない状態を不思議と思っているからだろうし
一番いえるのは
そういうウツな状態になった人でないと
この辛さも苦しみもわからない
そういうふうに彼らは思っているようだ。
「この辛さをわかってくれるのはレイアちゃんしかいないんだ」
そうやって彼らは話してくる。
彼らは誰にも話せなくて苦しんでいる。
誰にも理解されないと思い込んでいて苦しんでいる。
藁をも掴む思いでたずねた精神科もクリニックも
話をきくもわずかの間。
あとはクスリを出されてまた来週、
もしくは2週間後きてくださいといわれるだけ。

かれらのほとんどは仕事をしながらクリニックや精神科をたずねる。
中には残業が続いたり休日出勤などもあって
まったく自分がケアできない人もいる。
しかし仕事をやめるわけにもいかない。

彼らは走っている。
休むことを知らないランナーのようなものだ。
途中で飲み物を補給しながら走ることがわからない。
どんなものを飲むのがいいのか、
どんなタイミングで飲むべきかがわからないのだ。
かつてのあたしもそうだったように。

会社にいって心が辛いことを、
誰も話せないけど、いわなくちゃ、と、
勇気を持って話したこともあった。
だけど上司にしてもみんな
「しばらく休みなさい」
という。
今思えばそれもそうだと気づく。
まわりは心の病をどう対処していいのかわからないのだ。
休むことができるなら休みなよとまわりもそういう。

しかし就業規定では休業何ヶ月までとやはり決まっているわけであって
それ以上ゆっくり休んだのならば会社をやめないといけないだろう。
せっかくこのご時世に入れた会社だ。
やめるわけになんていかない。
そう思って少しだけ休んで
「大丈夫です」
といってしまう。
しかしまた調子を崩して同じコトを何度も繰り返してしまう。
何度もそんなことを繰り返すとやはりどうしたって勤怠に影響も当然のことながらでてくる。
すべてが空回りしてしまっている。
もがけばもがくほどに空回りしていると思い
どうすることもできなくなり、心が辛くなり、むなしくなる。
悩み、そしてまたクスリに手が伸びる。

藁をも掴む思いで精神科をたずねる。
最初に話した彼のように
医師は話をきくのもそこそこにクスリを出す。
患者はクスリを飲むとラクになれると信じてる。
だけど実際はどうだろう。
クスリを飲むとだるくなる。
思考することを脳がクスリで拒まれるのだ。

だるい。
ねむい。
カラダが思うように動かない。

そんな状態で仕事をする。
決して怠けてなんていない。
これまでがんばってきたじゃないか。
単にクスリがそうさせるだけなのだ。
だけどとても理解されにくい。
周りからはどうやったって
「怠けている」
そう思われてしまう。

かつて一緒に働いていた同僚に
普段は元気を装ってみんなに苦しいのを隠して接してたのだけど
ある日メルアドをきかれたことがあり
あたしは同僚にメルアドを教えた。
その晩早速メールがきた。
内容は会社で接しているその態度と正反対だった。

「会社に何しにきてるんですか?
怠けるくらいなら会社に来ないでください
給料泥棒と同じことですよね。」

という内容。
悔しくて悔しくて涙が出た。
これまで散々がんばってきたのに
心が苦しくても迷惑かけちゃいけないって
同僚にはいわないようにしてたのに
精神科にいって藁をも掴む気持ちでクスリを飲んだのに
だるくて、眠くて、カラダが動かない。
ボーっとしてしまって仕方ない。
まわりには苦しいことをいえないもんだから
「怠けている」と思われる。
ただでさえ苦しいのに、追い討ちをかけるかのような気持ちになった。
あたしは悔しくて仕方なかった。

「これ以上どうやってがんばればいいの!」

そう、心が悲鳴をあげてた。
それでもあたしなら大丈夫と信じて仕事を続けたら
ある日突然気を失った。
気づいたら救急車の中にあたしはいた。
パニック障害のはじまりだった。


あたしはそれでも精神科に行った。
ほかのクスリを出して欲しい、こんなのじゃダメだとなきついた。
クスリを変えた。
「きかないんですけど」
といってはクスリが増えていった。
気づけば1日に合計60錠になっていた。

自分のことなんて、どこぞの霊能者じゃない、
「あなたはこういうことで苦しんでいますね。
つらかったでしょう」
そう精神科の医師にいわれることを期待してるのか、してないのか
とにかくラクになりたい一心で精神科を受診していた。

誰でもいいからあたしをここから引きずりあげて欲しかった。

あたしをこの暗闇から出して!
お願いだから引き上げて!
助けて!!!

10年以上いい続けてきた。
10年前はウツに対する認識もかなり低く
「精神異常者」だと散々いわれたし相当傷ついた。
あの人は精神科に通っているからとコソコソいわれていたのもわかっていた。
助けて欲しい気持ちを
まわりや精神科に求めていたのは、
あたしには間違いだった。

あたしを救えるのはあたししかいないんだ。
そういう思い込みが輪をかけて心を締め上げていく。

がんばってもがんばっても誰も引きずりあげてくれない。
そう思い込んでた。
だけどそれもそのはずだよね。
誰も自分の心しかわからないもの。
下手したら自分でさえも自分がわからない状態が当時多かった。
がんばっても、どんなにがんばり続けてもゴールは永遠に見えない。
今ならばその答えもカンタンにわかる。
だって、自分でゴールを設定していないから。
あるいはゴールがあまりにも遠いところにあったりもする。
ゴールの適切な設定の仕方がわからないのだ。
ゴール、とは自己評価のことをいう。
ウツにかかりやすい人は、多かれ少なかれ自己評価が低いとあたしは思う。
心がしっかりしている人との違いは
適切なところにゴールを儲けているかどうかだと思う。
このへんで休もうってことができないのだ。
大丈夫、まだまだやれるとばかりにやってしまう。
気づけば自分を追い詰めていることもかなり多い。
期待にこたえなければ!という気持ちだってかなりある。

あたしは極端に自己評価が低いとよくいわれる。
自分で自分を認めてあげることをなかなかしない。
心理学からみれば、幼少時の母子関係がよくあげられるのだけど
がんばっても親がほめなかったりするときによくそういうことはあったりする。
学校に通ったときも成績だけはよかった。
「常に親や教師からはいい子」であろうとしていた。
ウラでは違ったのだけど(笑
そんなかんじであたしにはペルソナをいくつかもっていたというのもあった。
完ぺき主義だとか神経質だとかは今だによくいわれる。
だけどやはり自己評価の設定の仕方がうまくできない。
だから、今は仕事でなく家庭介護だけど、がんばり続けてしまう。
昨日も看護士さんに
「注射の打ち方も何もかもカンペキですね。
看護婦にあなたならなれると思うくらいですよ。
でもがんばりすぎないで時々はサボってください」
そういわれて、やはり根本の性質は変わっていないなって思いました(笑

自分がそうだからウツの人の傾向はよくわかる。
苦しみもよくわかる。
「うんうん、ソレよくわかるよ」
ってウツの経験がない、
「適切なゴール」を自分に設けられる健康な心の人に言われても、心の病の人は
「でも、本当にはわかっていないんだろうな」
と必ず思うからね。
まわりも対処が本当困ってしまうだろうね。
だけどきいてもらいたい気持ちは必ずあるわけだから
そういう人が身近にいるときは
気持ちがわからないときはアドバイスとか下手にしなくてもいい。
彼らは意見を求めているわけではない。
話をしたいのだ。
だけど話をどうしていいのかがわからないだけなのだ。
だから話し出したら、うなずいてしっかりきいてあげることが一番大切なんだよね。

自分で自分をしっかり心をケアできない限り苦しみは続く。
医者は何度も言うけど霊能者じゃないし占い師でもない。
わかってほしい状態は説明しなければわからないのだ。
苦しんでいる内容がわからないからといって
その医者は決して詐欺なんかじゃない。
スピリチュアルに変に迎合しようとしているマスコミの影響か
そのあたり勘違いしそうな人も多いかもしれない。
「思うような答えが得られない」
というのはきっと多くが
「理解して欲しい」
「受け入れて欲しい」
そういう気持ちだって思う。
彼らの話をきいて意見をするという行為は
時には「拒絶された」と受け止められる危険性だってある。
だからそういうときは
専門家とかその心になったことがなければ
なるべくきいてあげることに専念したほうがいいと思う。


あたしは友人にフラワーレメディを例によってすすめた。
心が苦しい人の手助けになるならばと思い、
あたしはこれで自分を取り戻したから薦めるのだけど
必要以上にすすめたりはしない。
ちなみにそのプラクティショナーの資格をとる勉強を今している。
基本的にフラワーレメディはセルフヘルプであって医療行為ではない。
あくまでもプラスアルファの補完療法だ。


たとえばおなかがとってもすいてる人がいるとします。
そこで食べ物をいくらでもあげることは可能ですよね。
だけどあたしならそこで、あえてごはんや食べ物をあげたりしません。
その代わり、お米の育て方とか炊き方を知っていたら、その人に教えていきます。
そうすればその人は、最初時間はかかっても、誰も食べ物をくれなくても
自分で作って食べていくことができるわけですよね。
それがトランキライザーとヒーリングの違いだってあたしは思っています。

おなかがすいている人に食べ物をいろいろあげていくのはいくらだってできます。
でも、食べ終わってしばらくすれば、その人はまたおなかをすかせてしまいます。
その人はずっとずっとそれを繰り返していきます。
確かに食べ物をその都度与えてしまったほうがこちらはラクですし
食べたほうもそのときは満足します。
だけどずっとそれが続くのはいいことだと思いません。
時には食中毒だってあるかもしれません。
それがクスリの副作用だって思っています。

休みたいといっている人に
話すことで心を解放すべきだと世間は求めます。
それは心が健康な人だからこそ、話せばラクになるだけにすぎません。
では心がとっても疲れた人はどうでしょうか。
話す気力すらない人も多くいます。
話そうと思っても何を話すべきかコトバがでてこないのです。
なぜならば頭の中は混乱しているからです。
要するに言語化できないからこそ悩むのです。
ごちゃごちゃしたカオスをすっきりさせられる段階になった時やっと初めて話すことができます。
それがカウンセリングです。
あたしはかつてカウンセラーの資格をとろうと履修していたことがありました。
カウンセリングというのは友達と話すようなものとは違い
一定のコツがあるわけです。
その人の内面を引き出す質問を投げかけていきます。
心を引き出してその人に気づきを与えるのも役割のひとつなのです。
気づきはとても大切。
その人の心を開かせていくのにはテクニックもスキルも必要です。
カウンセラーというのは軽い気持ちでやろうという人も多いですが
適正チェックは必ずすべきでしょう。

友人にかつてウツがひどかったときに外に出たくないと告げました。
彼女は
「会おうよ」
といってくれました。
何か糸口がつかめるかもと思い、やっとの思いで家をでました。
「ゆっくり話せるところがいいよね」
そういって彼女はカラオケボックスにあたしをつれていきました。
「なにか飲もうよ」
「おなかすかない?」
「歌っていい?」
彼女はあたしの話もきくことはなく
ジャイアンのようにリサイタルをひらきました(笑;
そのうち
「私の歌は人を感動させることができるの!
きけばあなたの心もすっきりするわよ」
といわれて3時間彼女の熱唱をきかされました。
いわゆる完全に自己愛型ですね(笑
ウツでなくなった今、それは笑い話のひとつになりましたが
当時、もう彼女にあいたくないって思いました(苦笑
正直それ以来カラオケにはトラウマで行っていません(笑;
だけどその友人はそういう形で助けてあげてるつもりだったのでしょうね。
だけどウツの人間にはそれは相当辛いことでした(笑

休みたいという人に休み場所を提供しましょう、とか
それが病院であれ、友達であれ、
休み場所はあるのだろうけど
ある程度選ばないといけないなって思いました。
さっきもいったけど話せばラクになるよといわれても
話し方がわからないのではどうすることもできません。
誰かに話すことでストレスがなくなるという段階で
しっかりケアすべきなのですが
それがなかなかできにくい状況ですよね。
人によっては、話しても
「そんなことで悩んでるの〜?」
と一笑されるにすぎません。
誰かをしっかり信頼していないとできないことだし
期待しすぎもいけない。

だからこそのセルフヘルプなのです。
さっき、お米の育て方にたとえましたが
プラクティショナーという仕事は
自分で心のヘルスケアをしていくっていうやり方を教えるわけです。
その人にそのヒーリングが適さない場合もあるだろうから
今いろんなヒーリングやスピリチュアルを模索してるんだけどね。
どうも胡散臭いと思ってしまうのが多くてねw
正直フラワーレメディも最初は胡散臭さを感じたんだけど(笑

だから必要以上に誰かにあたしはすすめなくて
興味をもって知りたいとかやってみたいという心の悩みをかかえて困っている人にだけ
サポートしていこうって思っているわけです。
その悩んでいる本人に教えていかないとセルフヘルプの意味がないしね。

休め休めってカンタンにいわれるのだけど
彼らは本当は心を休ませたいのではないのだって思うのね。
休むことを望んでいるのではない、
またゲンキに走ることを望んでいるわけ。
だけど休息のとり方をしらないからバテちゃって倒れてしまうの。
ずっと休まず走り続けてきたランナーだから
休息の仕方がわからないだけなの。
休めといわれたら逆に戸惑うことさえあるんだよ。

ただほんのちょっと、
落ち込んだときに、心のバランスの崩れを
どうすれば取り戻せるかさえわかれば
そこまでひどくはならないはず。
でも、そのやり方がわからず、いつのまにかひどくなってしまっている人が多いのが現実。


決してあきらめないでほしい。
そうあたしは必ず友達にいいます。

光は必ず見えるから。
あなたが希望を捨てない限り。
最近よく目にするのがこの言葉。

「オトナカワイイ」

男性雑誌ではまず見かけないだろうけど(笑
昔から日本の女性のファッションについてずっと思うことがあって
会社の先輩で同じ考えの人がいて
よくそれを話していたっけ。

その象徴のコトバが
「オトナカワイイ」
というコトバ。
確かに「オトナだってかわいくありたい」
っていうのはあたしだって思うし
特別なことだって思わない。

あたしは買い物が大好き。
買い物の大半は書籍とヒーリングとファッションになっているんだけど
持っている服はみんなが「オトナカワイイ」と限らない。
それはその人の好みだから別にいいんだけど
日本のファッションって、なんとなく感じるのは
いわゆる海外のソレとちょっと違う気がしてならないんだよね。

かといって別にミラノやパリの服と同じにすればいいとも思わない。
なぜならば日本人はやはり、彼らに比べ骨格も違う。
文化の違いはモチロンのこと、気候もかなり関係するだろう。
じゃあ着物を着るべきなのかといったら早合点だけど。

以前、インポートの服をよく着ていました。
あたしがきていたのは別に、それこそミラノとかパリのものでは到底なくて(笑
ブラジルとかLAあたりの服が中心だし
今もそれらの服をたまに買います。
ブラジルだとブラジルジーンズが有名だし
ライダーの人とかは結構知ってるかもしれないけどね。
もちろんセレクトショップやらファッションビル探しても
ブラジルの服やLAの服だなんてなかなかお目にかかれない。

ブラジルの服はヤフオクで見つけて5年くらい前よく着ていましたが
今はその方はネットショップを開きました。
ヤフオクで出品⇒ネットショップというバイヤーの方と
当時は結構知り合いになりました。
そのうちのひとつがここ↓

Sanna's
http://sannasjp.com/

よくお世話になった出品者がこうやってネットショップとして成功しているのを見ると(しっかり更新されていらっしゃるので)
やはりとってもうれしい。

ファッションはガマンすることだって
かつて何人かからきいたことがあります。
そしてテレビで誰かスタイリストさんだか評論家の人も
ソレをいっていたんだけど
あたしは個人的に必ずしもファッション=ガマンだって思わないです。
確かにある程度服にあわせた体型にならないといけないし
だけど着心地っていうのもあるよね。
まぁ寒いけどノンスリーヴとか着るのはそういうわけですよね。
あたしも考えたらガマンしてました(笑

先日実家で45リットルのゴミ袋5袋分、洋服を捨てました。
その前にも今いる自宅の服も捨てているので
かなり洋服を、もったいないといいつつ捨てました。
これお気に入りなんだよね、
といってても色あせていたら外を歩くのにみっともないし
この服やせたら着る!といってて着れずに終わった服もかなりあったりして(汗
その手の服は
「いつか着るから」
といいつつ、その「いつか」になっていざ着ようと思うかというとそうでもないことにようやく気づきました。
もう流行が終わっている、とか
同じようなのがはやっていてもディティールが違うので
似たようなデザインでもやはり古いと感じざるを得ません。
それにその「いつか」になるということは
その分時間がたち自分もオトナに加速度が増しているわけであって(笑

そういうことをわかっているのといないのとでは
これからの買い物の仕方の影響が違うだろうなと思いました。

ファッションて本当に移り変わりが激しいのだけど
今レトロ柄がはやりつつありますが
来年にはもう着れない可能性だって高いわけで、
春の流行は...
・パフスリーブ
・バルーンタイプのスカートや袖
・エアリーなかんじの服
・リボン
まぁあげてるだけでキリがない(笑

流行にちょっと振り回されてみるのもいいかなって思う。
かといってはやりに飛びつくのとはちょっと違って
流行をある程度楽しまないとなんだか寂しいじゃない?(笑
だけど自分の個性やらスタイルを崩さないのがいいよね。

エビちゃんにあこがれる女性がいまどれだけいるのか知りませんが
女性誌を見てもみんなどれも読モ(読者モデルの略)が
同じようなポーズ、同じような表情で写っていますよね。
正直いえばあたしにはそれが滑稽でなりません。
それってエビちゃんなんかの二番煎じでしかないって思うのよ。
だってそれぞれの読モでもそれなりに個性があるわけだからね。

...とここまで書いたけど、
実際問題彼女たちはお人形さんなわけであって
カメラマンやら編集の人たちから求められることが表現できてるかどうかはかなり重要なのかもしれない。
その服の売りたい部分をしっかり出しているか
そういうポーズを作らないといけないわけだし。
要するに彼女たちも第二、第三のエビちゃんを超えたい気持ちはあったにしても
その服のコンセプトだったり特徴をいかに表現するか(要するに売りたいわけだから)
という仕事がモデルなわけだから
そうやって「エビちゃんになりたし、なれなし」の
片足ひざ下を後ろにあげて両手をアゴの下で「ウフ★」ってやったり
髪にはバングを入れて巻きまくっていて頭にカチューシャをし、
口角を不自然なほどあげてるわりには目がこえ〜よ!
っていう読モとかかなりいますよねwww
エビちゃんそのものがお人形さんみたいというか少女マンガっぽいふうにあたしからしたら思うのだけど
「愛され系」ファッションをすれば本当に「愛され」るのか、「モテ系」ファッションが本当にモテてるのかどうかは知りませんがw
女子からしたらそういうのってもはや神話化してる気もするし
髪型にしてもメイクにしても日本てみんなまったく同じだって思うんだよね。
要するに個性がなさすぎってことよ。

デニムジャケットのファッションが流行っていたときに
近所のアーケードを通ったのだけど
あたしがそこを通り抜けるまでの間に27人の人がデニムジャケットを着て向こうから歩いてきたことを
半ば興奮気味に友人に話すと
以前アパレルで働いていた経験をもつその友人はこういった。
「要するに制服と同じだよね」
このヒトコトは芯をついてるって思いました。

髪型も同じような人が多いと感じるんけど
ニワトリが先か卵が先かになっちゃうけど
女性は男性に見てもらいたい(ストレートにいえばモテたい)から
そういうファッションや髪型にするのか
男性がそういうファッションが好きだと思いこんでいるだけなのか
という話を以前美容師の友人(男性)に話したことがあったんですが、彼は
「結局男も女も流行に振り回されているってことだよね」
みたいなことをいっていました。

インポートの服の話に戻るけど
さきほどのはブラジルでしたが
LAの服を輸入したりバイヤーさんから購入していた時期があります。
今でもLAの服とかヴィクトリア・シークレットの服が好きなんですけど
http://www.victoriassecret.com/
なんで好きかと言えば、着やすくて子供っぽくないこと。
サイト見れば、あたしをよく知る人なんかは
「ああ、そういえばよくそんなかんじの服着てるよねw」
って思うでしょうw
人によっては
「艶女(アデージョ)だよねw(NIKITA用語)」
http://www.shufu.co.jp/magazine/nikita/
といわれたこともありますが
NIKITA読んだことないっすからw
ラヴァリエール(乳間ネックレス)ならやったことあるかもしれ....
子供っぽくないのとオトナカワイイというのはイコールとは思いませんが。
カワイイ服も買うしw
確かに日本でVictorias Secretの服は一部着れないだろうっていうセクシーすぎのもあるし、
買ってしまったあとで
「ていうかどこに着ていくんだオマエww」
と自分でツッコミたくなる服も結構あるんですが
返品はしていません(笑
「日本でコレ着ちゃったら露出狂だよなw」
「エロカワとかいってらんねーよなw」
「ちゅかフツーにエロエロww」
っていう服を”気づいたら”買っていたわけでww

要するに日本の服って
「オトナカワイイ」
に代表されたり
姉キャン(CamCan卒業したおねーさん版)が出版されたり
姉キャンの服はあたしも結構好きだったりするんだけど(笑
「さすがにもうCamCanとかいってらんねーべ?
だけどやっぱCamCan好き〜★」
といったCamCanを参考にして育っていった人向けの雑誌なわけだけど
これは押切もえちゃんがメインか?ってかんじになってる気もしますがw

海外の全体のファッションと何が違うのかといえば
日本のファッションは全体的に子供っぽいってこと。
時にはそういうのも必要だって思うけど
だけどそのヒトコトは
複数のインポート服のバイヤーさんからきいていた生の声。
日本のファッションについてのヒトコトがそうなんだよね。

そういうファッションで育ってきて
オトナになってもカワイイがいいというのは
ある意味仕方ないともいうし、それがあっているなら否定しないけど。
いわゆるオトナ世代のファッションリーダーって
何故だかほとんどがみんなシンプルなファッションだよね。
さっき日本のファッションが子供っぽいというバイヤーさんたちの声を書いたけど
その世代を超えると結構みんな落ち着くとか、
ファッションにお金を使えなくなるってかんじになってきて
生活面で落ち着く世代になるあたしの母親くらいの年代になると
1.シンプル
2.ミョーに柄だけが派手でアンバランス(いわゆるオバチャンファッション)w
3.ブランドを着こなす
くらいしか想像できない。
多様性がなくてそれはその世代に「マーケット」が存在していないからだって思うんだよね。
だけど「オトナカワイイ」は新しいマーケットだって思うんだよね。
子供っぽいといくらインポートのバイヤーさんは口にしていても
「いいじゃん、オトナだってかわいいのがいいし」
という開き直り?にもとれるというのかな(笑
あたしもその一端を担っているわけですがw

あたしからしてみたら日本のファッションってなんだか面白みにかけてるのね。
「オトナカワイイ」だの「乳間ネックレス」だの、
そんな流行があるのは楽しいって思うけど。
シンプルな服も確かに持っているよ。
でもシンプルなものが好きという人の多くが
ヨガやったり自然食に熱中だったりオーガニック化粧品だったりしてるけど、彼らはあたしからしたら
「不自然なくらいに自然を意識してる」
っていう気がしてね。
アトピーで仕方なくって人も多いからそういう人は体質があるし別だって思うのだけど
自然派ブームって何故だかヒーリングやスピリチュアルがくっついてることも多いよね。
ヒーリングやスピリチュアルあたしも大好きだけど
でも、だからといってそこまで徹底してこだわらなくてもいいんじゃない?って思ってしまうの。
だってシンプルライフって、いってしまえば地味じゃん(笑
地味がダメとか派手がいいという意味じゃないのよ。
そういうの好きだからってみんながみんなそうしなくてもいいんじゃない?ってコトね。

ファッション雑誌の影響は実に強力だよね。
確かに流行に振り回されてみるのも楽しい。
だけどあくまでも服が主体じゃなくて自分が主体てことを忘れないでほしい。

モデルさんたちはある程度「お人形」という役割で
商品の特徴を出すためのポージングをしているわけだから
それを気に入って購入した後は、主体はあくまでも自分であって洋服じゃない。
カワイイ服に身を包めば確かに気持ちもウフウフ★になれるけど
やっぱしファッションって第一印象になるし
その人そのものを表現してる(センスを含め)と思ってしまうわけだから
流行に振り回され、服に振り回され...っていうのは避けたいところ。
「流行の自分なりの取り入れ方」を思い描きながら
ファッション雑誌片手に研究するといいんじゃないかな。
街歩く人のウォッチングも楽しいよね。

ファッションによって気分も変わるし、
気分によってファッションは変わるって思う(少なくともあたしは)
髪型やメイクだって同じこと。
変身願望があればファッションやヘアスタイル、メイクでいくらだって変わることは可能だって思うし
そんなときが、
「女に生まれてきてよかった」
そう思える瞬間だって思う。

女に生まれてきたからには、
一生オンナであり続けたいって思う。

「なりたい自分」を演出するもよし、
「自分の個性」を表現するもよし。

主役はあくまでも自分自身なのだから。
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