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そしてその多くが「警告」というカタチで
フキツな予兆ととれるものだといってもいいだろう。
人間はどうも謎めいたことに何かを見出したがる生き物なのかもしれない。
そして不可解なものに対しても。
たとえば聖書。
これもまた長い年月をかけて編纂されてきたものであったりもする。
モーゼの十戒はきいたことのある人は多いだろう。
モーゼもまた「預言者」だ。
そもそも「預言」とは神の言葉をさす。
聖書でよくみかけるコトバが「神はいわれる」だ。
オランダの哲学者であるスピノザは神学政治論で
預言者についてこう語っている。
「預言者のイキイキとしたイマジネーション
預言者に神から与えられたしるし
正しいこと、よいことのみに向けられた預言者の心
これらがそろっていないと神のコトバを授かったと民衆は確信できない」
当時の聖書の解釈に預言者は真理を語らず
人々の無知にあわせて語ったとする適応理論が論議を呼んだそうだ。
こんなことを書いたのもほかでもない。
的中率90パーセントといわれているブラジルのジュセリーノ氏が話題になっている。
彼の場合は「預」ではなく「予言」なのだが。
というのも、
2007年3月に東京で地震が発生してパニックになるという予言を彼はしていたのだ。
同じく2007年10月にも日本で大きな地震があると予言しているのだが。
「予言」はもちろんこれだけではなく
2007年については世界的にいろいろ「予言」している。
・トルコ、ヨーロッパ、パキスタン、インドネシアで地震発生
・フィリピンで大きな台風災害
そして今年は人類が地球温暖化の対策を行える年であって
これを過ぎると人類が滅亡する方向にいくといっている。
要するにこれは「警告」だ。
(ジュセリーノの予言は巻末の"more"に別記)
http://www.jucelinodaluz.com.br/
以下は聖書の内容にも含まれるものが結構あるけど
昔からある予言にはどういうものがあったかみてみよう。
ファティマ(ポルトガル:聖母マリア)
マラキの預言書(北イスラエル:旧約聖書マラキ書)
ヨハネ黙示録(新約聖書)
大艱難<かんなん>(聖書)
ハルマゲドン(聖書)
至福千年(聖書)
マヤの予言(中南米)
インディアン、ホピ族の予言(北アメリカ)
ジーン・ディクソンの予言(アメリカ)
日月神示(日本)
アガスティアの葉(インド)
探せばもっとありますねw
終末予言
ttp://www.nazotoki.com/doomsday_prophecies.html
ざっと見ただけで人類は滅亡しっぱなしです。
そして終末思想には宗教関連が多いこともわかりますね。
ま、占星術も多いんだけどw
ちなみに一番最初に人類滅亡の予言があるのが紀元170年みたいです。
2000年代に突入してわずか7年ですが、この間にもかなりある気がします。
どうもブロードバンドの普及と平行している気がしてなりません。
そもそも予言そのもののあり方が旧約聖書などの時代と2000年の今と
変わってきている気がするのだけどどうだろう。
今では「預言」というものはほとんどなく
「予言」になってはいるけど
警告という意味あいでは同じな気もします。
特に宗教などは倫理観がとても関係するものだから
従来は「預言」というカタチにより国を統率しようとしたかんじではありますね。
そんなふうに預言は宗教の道具(武器)のような気がしてならないのです。
それこそ10年前でもこのようなネット携帯時代になるとはここまで想像しなかっただろうと思う。
今こういう「予言」が多いというのは、
いや「多く感じてしまう」のは
やはりネットなどでの「情報の氾濫」というのが一番いえていると思います。
そういう氾濫した情報の中で果たして予言がどこまで予言としてなりうるのだろうか
人類への警告としての価値たるゆえんはどれほどのものか、
人心をいたずらに不安に陥れるものにすぎないのか、
というのがあたしのそもそものさまざまな予言に対する疑問なんですね。
何かコトがあってからだと、おそらく自分の身を守るだけで精一杯になるだろう。
予言は警告の一種だから、と昔さながらそのまま受け取ったにせよ
ここまで情報が氾濫して、
毎年のように今年は地震だ、異常気象だと「予言」を耳にすると
「警告」としての価値やありがたみって少なくなるだろうと思えてならないのだ。
要は予言の乱発とみれなくもないわけだ。
恐怖心と不安が入れ混ざった
単に人々の好奇心を煽るだけのアイテムだと思われてしまうのも否めない。
すでに終わったとされている予言としては
ノストラダムスの予言とかグランドクロス、惑星直列のほか
エジプトの予言などがあるだろう。
そもそも預言はこれまでも書いているように昔からされているものだ。
預言が神の言葉だとか警告とされているのは
旧約聖書などによれば古代のヘブライ人などは洪水とか地震などというものは
「神が起こしたこと」(神の怒り)
としているからだと思う。
このジュセリーノ氏の場合は「神」という言い方をとらないのが特徴だ。
あくまでも「創造主」としている。
要するに「天地創造の神」ということだ。
あらゆる宗教に対応するものとも捉えることができよう。
大きな地震があったとして
被災者の方々は何年たっても心にトラウマとして残ってしまうと思う。
こういう災害のとき、明日はわが身と思い、みないっせいに防災対策をする。
しかし情報を入手するであろうマスコミでは
ほとんど一定の時期をすぎれば報道をしなくなる。
勿論、同じものばかりだと視聴率があがらないと判断するからだ。
それに流されがちな人間は災害はあくまでも
結局ヒトゴトとして受け止めて流すケースが多い。
被災のココロの傷は当人にしかわかりえないということになってしまうのだ。
時々テレビでやる地震特集のようなものでも
その恐ろしさばかりを強調して伝えるだけで
実際どうすればいいのか(防災の方法)ということが伝え切れていないケースがほとんどだ。
恐ろしさをクローズアップさえすれば視聴率がとれるというだけにすぎないからだろう。
しかし仮想社会においてそれは戦争を映画で見るのと同じ感覚にすぎず
あくまでも必要なのは「リアルの声」なのだということを忘れていることが多いのだ。
そんなふうにここで何度も書いているけど
マスコミの倫理観喪失ともいうべき報道体勢の功罪は大きいと思うのだ。
視聴率優先というのは企業でいうところの儲け主義であり商業主義でしかないのだ。
これらの予言の氾濫、とでもいうべき現象は
異常気象や災害は性質上「生存する上での不安や恐怖」という
「ココロ」(ユング心理学でいう集合意識)とリンクしている気がする。
「あの占い(予言)あたったね」
などと意外にもあっさりと、しかし強引に
リクツづけようとする心のトリックがそこにはあると思うだ。
マヤ暦について話を移そう。
マヤの暦の場合は、そのこよみの計算が2012年で終わっていることから
2012説が終末論的にもちだされる傾向が多い。
マヤ暦は宇宙のリズムの流れを基調としたこよみだといわれている。
こよみの歴史をたどるとグレゴリオ暦が指摘されてから500年になる。
しかしユリウス暦と太陽年との誤差の問題が指摘されつつも
300年以上にわたって放置されていたことも宗教上の理由が大きい。
ちなみに日本では天保暦が最後の旧暦になる。
日本のグレゴリオ暦導入は明治5年(1873年)の太政官布告第337号「改暦ノ布告」からとなった。
そういういろいろを考えると今のマヤ暦の立ち位置(?)は
ヒーリングやスピリチュアルなどのブームのうちのひとつとしてなりたっている気がしてならないのだ。
(そういう意味でアセンションとかフォトンも同じこと)
日本でここまでスピリチュアルがブームになったことのひとつに
特定の宗教をもたない人が多いというバックグラウンドがあるのでは、とも思う。
日本ではお盆など「先祖」を祀るということがある意味宗教に近いのかもしれない。
そしていまやそれすら離れているのに関わらず「カルマが」「過去世が」
などといってスピリチュアルをありがたがる姿はある意味滑稽にも映る。
日本ではこよみではないけど二十四節気七十二候がある。
二十四節気とは立春とか春分などの「季節の節目」をいう。
七十二候はちょうど今でいうならば
7月2日は「半夏生」にあたり
黄経100度の点を太陽が通過する日のことをいう。
半夏生は農家にとって大きな節目になり、
それを考えるとやはり文明がすすむことにより
「自然」から離れてしまってきてるという感がある。
そして自然災害が文明と自然との摩擦のような不安な心理を作り出し、
そして新たな予言者を作り出しているのかなとも思える。
半夏生の頃降る雨は大雨になることが多いと昔はいわれていたようだが
それも梅雨の終わりになって大雨が降ったり集中豪雨が多いということともつながると思うのだ。
集中豪雨のたび「異常気象」などいっている気がするけど
これもまたマスコミの報道体勢もからんでくる気がする。
もっと冷静で客観的な目が必要なはずだ。
日本では騒がれているマヤ暦2012年説も
ほかの国ではマヤ暦をどうとらえているのかわかりませんが
そこでスピリチュアル産業のことが頭をどうしても掠めてしまうのだけどね。
確かにマヤの叡智を習うのならいいのだけど
なんで2012年のことばかりいう??
と思えてならないんだよね。
マヤ暦は自然や宇宙との共存というのかな、
昔の人の文明や智恵だって思ってるのですが
それなら自然や環境を大切にするほうに中心にすすむべきなのに
なんだか単なる「トンデモ」に成り下がった印象を与えている気さえする。
環境を大切にするって、たとえば割り箸は使わないとか
そういう小さいことからでも違うと思うのですよ、気持ちって。
さっきいったように日本には二十四節気七十二候のように
自然と共に生きる智恵があるじゃないかと思うのですが
(もともとは中国から入ってきたんだけどw)
古代のヘブライの世から、ノアの箱舟にしたって大洪水だったわけで
いってみれば「超異常気象」だ。
確かに環境汚染や温暖化は対策を地球規模で考えるべきだと思うけど
要するに「予言」から何を学び取るかが大切なのであって、
単に
「何もなかった、よかった」
という問題ではないのだと思うのだ。
それこそ学ばずヒトゴトで済ませているに過ぎない。
一方自然との共存は文明が進むにつれて難しくなりつつあるのは事実だ。
だからこそどう自然と地球と宇宙と共存すべきかを
優先して考えていくべきなのではないだろうか。
先日ちょっと書いた日月神示にしても、
そもそも日月神示は岡本天明氏による「自動書記」であるらしいけど
(降りてきた霊によって書かされたらしい)
これもまた警告じみた内容だ。
確かに「予言があたっている」ともいわれているけど
個人的にはマヤ暦と同様にこういったもののありかたは
「訓示」というか
「どう生きていくべきか」
についてメインに考えるものだって捉えています。
しかし日月神示の中の「弥勒の世」についてだけ持ち出して
人類滅亡説とつなげて解釈している人も結構いるのが事実ですよね。
(ここでのミロクとはマイトレイヤー(光を放つ神)をいいます)
終末思想ばかりに魂がジャックされちゃってる人たちには
聖書も日月神示もマヤも
参考にすべきところを参考に生きないで
学ぶべきところをスルーして
終末思想ばかりふけってどうする!
ってふうに個人的には渇をいれたいなって思っています(笑)
※関連過去ログ
それでも地球はまわる #1フォトンベルト
※参考

スピノザ
神学・政治論(上巻)
この「それでも地球はまわる」シリーズは
また頭の中でまとまり次第書いていきたいと思ってますww
※マヤ暦関連※
2007.7.26〜2008.7.24は白い月の魔法使いの年です★
13の月の暦 2007-2008壁かけタイプ縦カレンダー

グレゴリオ暦もわかりやすいので使いやすいです。
13の月の暦(横カレンダー)2007-2008

13の月の暦手帳 2007-2008

未来からの警告(ジュセリーノ予言集)

以下はジュセリーノ氏の主なこれからの予言デスw↓
「批判的思考」
と訳す。
あたしは基本的に何か興味があったテーマや課題に直面すると
必ずこれをやります。
今日はクリティカルシンキング(以下CT)をテーマに例をだしながら説明、話をすすめていきます。
ネットや携帯、それ以前からだとしたら
マスコミや雑誌の情報、
もっと身近な例ではいわゆるウワサみたいなものについて
あたしはいつも懐疑的な見方をします。
要するに話を鵜呑みにしないということですね。
そんなふうにメディアに対して批判的な意見で見ることを
きいたことがあるかもですが
メディアリテラシー
といいます。
信じないとか否定する、という意味ではモチロンなくて
「critical」には批判するとかあら捜しとかそういう言葉も含まれるのですが
もちろんあら捜しでもなく、批判でもありません。
情報が氾濫する時代に、こういう目線は大切なのではないかということです。
わかりやすいので何度も例にだしている「あるある」捏造ですが
あれに騙されたという人たちはまさにこの「CT目線」ができない人たちでしょう。
情報を鵜呑みにする、ということの恐ろしさ(笑)
これについてはどこまでがエンターテイメントでどこまでがヤラセなのか、という目線でもあります。
同時にどこまでは楽しむけどそこまではハマらないっていう一線でもあります。
これが特にダイエット特集だなんて本当いい例ですよね。
みんながみんなこれがきくんだ!っていっせいに走る。
もう終わってしまった情報番組で白インゲンがやせるといっていたわけですが
確かに白インゲンのファセオラミン(ファビノール)は炭水化物なんかに効果があるようですが
番組でやったのはインゲン豆を炒るものを紹介したようですが、
炒るのを面倒と感じた視聴者が生で食べたりして調子を崩し、苦情が相次いだらしいです(で、番組も終了、と)
それ以前も同じ情報番組で番組内で注意喚起をしつつもそれを守らずにやった視聴者が事故(やけどとか腹痛とか)を起こし
番組が中止になっているものがいくつも過去にあります。
こういうのを見ていると番組も番組だけど視聴者もアホ!としかいいようがありません(笑)
だってそもそもラクしてやせようっていう考えそのものに問題があるのだから。
そもそも生活の習慣を変えなければ同じことを繰り返していくものです
(でもそれを変えていくのはクチでは簡単なんだけどねww)
そしてまた特に女性はこの「クリティカルシンキング」をする人は数少ないです。
さらに「流行」ともなるとやたらとびつきたがるのも女性に多い行動(←あたしもw)
(そしてこれらは各マーケットとも連動しているわけですが)
だけど個人的にそういうときやっているのは
情報は情報として頭に一度インプットをしてデータとして保存します。
次にそれについて客観的な目で見、調べ、興味を持てば何かしらのアクションをちょっと起こしてみるかんじかな。
別な意見にも耳を必ず傾けます。
前回から何度もここでスピリチュアルについて書いていますが
一方でこれがよかったですとか商品を紹介しつつ
なんでスピリチュアルに懐疑的な意見をもつのか
ギモンに思った人もいると思います。
(関連)
魂の成長
なぜスピリチュアルがすきなのに批判的なことを書いているかといえば
ネットで見ても業者のサイトにいきつくケースばかりであって
なぜかレビューを見ても何を見ても
ありがたがるものばかり。
そこであたしは本当にみんながみんなそう思っているものなのか?
という点について疑問視しはじめたんです。
批判するのがタブーなんじゃないかというくらいに
なぜか「効果がなかった」という人がいない。
これだけサイトみてれば一人はいてもいいはずなのに。
ならばこのサイトでは商品を紹介しつつも
批判も同時にしていこう、という
一見矛盾したことをしようと思ったのです。
楽○なんかのレビューもよく読むのですが、女性にありがちなレビューが
「○○が来るのとても楽しみにしてま〜す★」
...って、ソレ、レビューやないやんっ!!ノシ
っていうツッコミたくなるものがかなり多かったり(苦笑)
「まだ到着しません。いったいいつになるんですか?」
って、ソレは店に直接メールしろ!ノシ
そんなふうに「商品のレビュー」欄にお店のレビューを書いたり
実に感情的なものばかり。
客観的意見と私的意見を混同する人も数多く見受けられます。
(やはりほとんどが女性)
欲しい情報がまったくないことも多いです。
または商品の説明(商品ページにいけばすぐにわかること)を
そのまま書き写す人も少なくないです(こちらは男性に多いです)
なぜ到着してもいない商品に対して「レビュー」を書くのか。
これについてのカラクリは実に明瞭で
楽○サイドで商品についてのレビューを書くと楽○ポイントがもらえるという仕組みにあります。
お店から催促されることも過去ありました。
(レビューの数が多ければお店がそれだけ注目されるってことですね)
その商売のやり方は確かにうまいと思いますが
「レビューの大量生産」が相当目立ち
クオリティの高いレビューに出会えたケースはほとんどないですw
あたしは本をとても読むのですが本を読んだり商品を買うときは(特にネットで)
必ずそれについて調べます。
というのも批判的な意見を知ってから買ったほうがいいと思うのです。
特に図書館になかった本の場合はその周辺でいいものがないかも同時に調べます。
Ama○onとかHM○とか
「これを買った人はこんなものも買っています」
ってあれは本当にうまいやり方だなと関心します。
企業のほうも同時に複数売り上げを見込めるだけでなく
あたしみたいな好奇心だらけの人間にはうってつけです(笑)
これにより、実際かなりの自分の知識の幅が広がりました。
そもそもあたしの場合は
哲学に出会って考え方がかなり変わったのも事実です。
ヒーリングやスピリチュアルの世界にたどり着くステップに
哲学があったし哲学には宗教学がつきものでした。
それ以前も心理学や精神医学、社会学の興味があったので
(最初は心の病を治すため、そういう本を読み漁っていました)
あたしの中ではそれらが思考の全てがつながっているんですよね。
真理を追い求めているうちに
いつのまにか「なぜ?」で物事を何に対してでも考えるクセがついてしまいました。
それまでは思い込みの激しい人間でした。
そしてなんでも感性だけでやってしまう面もありました。
これらはやはり女性にありがちなんだけど
でも、哲学に出会ってからは客観的に論理的に物事を捉えるクセができました。
要するに左脳的思考も身につけるようになったんです。
そう、思考の偏りなんだよね。
考え方のクセというのは治せるものだって思います。
あたしがそうできたのだから。
で、哲学をすすめたいとこですが(笑)
とっつきにくさが一般的にはあるようで、
ならば、クリティカル・シンキングの方法を紹介したほうがいいかなと思ったのです。
親しい女性の友達で、多分本人はこの言葉を知らないかもしれないけどクリティカルシンキングをする人がいます。
女性は感情でモノをしゃべることが多いのですが
その彼女は感情にめったに振り回されないというか、
実にギモンをもって物事を考える人。
だからその彼女と話をすると論議がつきません。
お互いに別に批判しあうでもなく、同情するわけでなく
女性にありがちな「いつも一緒。仲良しでべったり★」
というのがないので一定の距離のつきあいができます。
いつも一緒にいることだけが親しさや友情だと考える女性は多いのですよね。
あたしはそれがとっても疲れるんだけど(苦笑)
だけどその彼女とは一定の距離を保てることができて
そういう意見を交し合える唯一の女性。
その彼女との話は、別にお互いに
「それは違うと思う」
という内容の意見をいったからといって友情が壊れるわけでなく
あくまでもそれはそれとして受け止めているので
非常にラクなんですよ。
しかし通常、ほかの女性にちょっとでもそういう内容を話すと
なんかこっちが責めているかんじになってしまう状況になりがちです。
女性の多くが感情で動くことがほとんどなので
なんとなくつきあいにヒビが入ってしまうことも多いんだよね。
こっちはそんなつもりないのに。
だから正直オンナってめんどくさい生き物だなって思うこともかなりありますw
そんなことしてるうちに、あたしがこういう考えで話せる人は
ごく少数か、
というよりこのブログがメインになっています(笑)
なんとなくわかったかもだけど
クリティカルシンキングっていうのは
「人間が陥りがちな思考の落とし穴や先入観に注意して
合理的に内省することを重視する思考法」
ってことになっていますが
よく教育関係者とかビジネスなんかの場に用いられるようですね。
しかしながら、CT的思考でいると陥りがちなこともあります。
いわゆる思考の停止、です。
あたしの場合は葛藤、なんですけどね。
あたしはこう思う。でも客観的な考えはどうなのか。
...そう頭だけで考えるのでなくて
それをたとえば体験したことのないことなら、
それらの懐疑的な見方をふまえつつ、
感じたことを優先させています。
スピリチュアルは好きです。
だけど、いろいろ思うところはあるけど、
やっぱ好きなんだよねw
ってかんじですね(笑)
いろいろ書きましたが、何より一番に大切にしているのは
結局やはり自分の感性だったりもします。
だけどここでいいたかったのは
感性だけに偏るのでも、
思考だけに偏るのでもない
バランスが大切だっていうことをいいたいのですよね。
実際に体験するのが何よりも一番わかること。
そこで批判的意見も交えながら
本当の自分を「右脳」だけでなく「左脳」からも探していたりします。
こういった思考をもって
よりクオリティの高い情報を活用できるようになることは今後さらに必要だって思います。
以下CTについてのサイトをいくつか紹介します。
情報化社会にはやはりかかせないものだと思うので
ためしにやってみてはいかがでしょうか?
興味があればどうぞ。
クリティカル・シンキングとは何か?(兵庫教育大学)より抜粋。
・クリティカル・シンキングのための8つのガイドライン (Wade,1995;1997)
(1) 疑問を持つ
(2) 問題を定義する
(3) 証拠を検討する
(4) バイアスと仮定を分析する
(5) 感情的な推論を避ける
(6) 過度に単純化しない
(7) 他の解釈も検討する
(8) 不確かさに耐える
・クリティカル・シンカーの思考の7つの特徴(Smith,1994)
(1) 柔軟,多面的な視点で考える
(2) 人間のバイアスや仮定を認識している
(3) 懐疑主義的な態度を保つ
(4) 事実と意見を区別する
(5) 過度な単純化はしない
(6) 論理的な推論過程を踏む
(7) 根拠を吟味する
・クリティカルに考えるために,また,考えさせるために必要な要素は?
(1) 題材が必要(各教科,日常の問題,メディアの材料)
(2) 考えるための基礎知識が必要
(3) 考えるための基礎的な型(思考法)が必要
(4) 人間の認識に関する知識が必要
(5) 練習と習慣化が必要(発問リスト等)−−−少なくとも最初は。
(6) 動機づけ,強化(報酬)が必要 −−行動形成の発想を取り入れる
以下、その他参考サイト
・批判的に考えるための情報リテラシー
− 情報処理入門における分析的アプローチの実践 −
(早稲田大学メディアネットワークセンター)
・批判的思考の諸概念(琉球大学)
・クリティカル・シンキングで身に付く「考える力」@IT 自分戦略研究所
あなたの心と魂の問題です。
だけどスピリチュアルというものは
ひとつの産業にすぎないってことにも
早く、早く、気づいてください。
巨大なマーケットの中に飲み込まれないでください。
魂の成長や心の成長に興味があるあなた。
たくさんのお金を払えば、
サービスをうければ、
商品さえ買えば、
払ったお金の分だけ
心や魂が成長すると思ってはいませんか?
もしそうなら、
あなたが本当に求めているのは
スピリチュアルの世界にあるのではなく
マテリアルの世界にあるような気がしてならないんです。
残念ながら魂はそんなたやすくは成長しません。
一生かかってもわずかにしか成長しないことだってあります。
たやすく魂の成長なんて手に入りませんし
入ったとしてもそれは「安い魂」でしかないでしょう。
魂の成長のさせかたがわからないのですか?
魂の成長のやり方を探して
巨大なマーケットの海に身を投げるんですか?
答えはいつも自分の中にあるんですよ?
人間は肉体だけの存在ではありません。
肉体(Body)、心・意識(Mind)、精神・魂(Spirit)をもった存在です。
この世に肉体を得た魂は
「経験」「成長」するために生まれてきました。
心を、魂を成長させるプロセスには
どうしても欠かせないことがあります。
辛いなって思うこと、
苦しいって思うことがあるでしょう?
心が苦しいとき、あなたの魂は、
今、まさに成長しようとしています。
だからそこから逃げないで、
決して安いほうに流れないで、
自分を見つめてください。
自分を見つけてください。
まずはしっかり自分と向き合うことからはじめてみてください。
そこから何かのメッセージを静かに感じ取ってみてください。
感じ取ったメッセージは
生きていくエネルギーに変えてみてください。
感じ取った大きな愛情を
今度はあなたのほうが与えてみてください。
感じとった感謝を
誰かに言葉にだして伝えてみてください。
自分という存在を
しっかりと抱き締めてください。
辛さや試練はスピリチュアルの世界では
「チャレンジ」とか「ギフト」といったりします。
今そこにある生きにくさや辛さは
あなたに与えられた
魂が成長していくための「課題」なのです。
大丈夫です。
どうか自分を信じてください。
あなたが乗り越えられるからこそ
出されたテーマなのです。
ただ、辛いことがあったとき、
心を閉ざしがちにもなります。
どうしても前にすすめない時だってあります。
自分を見失うことだって、あるよね。
そんなときこそスピリチュアルをツールとして
まずは使ってみてください。
決してスピリチュアルの世界に操られないでください。
スピリチュアルの世界に操られて自分を見失わないでください。
こういったプロセスを何度か繰り返すことによって
今は何をすべきか、
なんとなくでもわかってくるはずです。
いわゆるそういうものが
ハイヤーセルフとのつながりの第一歩だと
あたしは思うのです。
ヒーリングだといって、ストレスがリセットされて
本当に心から癒されたっていう人、
どれくらいいますか?
ヒーリングというコトバや産業に
単に踊らされてはいませんか?
もしあなたがそういうパターンをたどっているならば
スピリチュアルでも同じことを繰り返すことがあるでしょう。
魂が成長した気もちに一瞬なるだけで
スピリチュアル産業の餌食になってるパターンだって
実際あるはずです。
心も魂も目に見えないものを扱うんですからなおさらです。
もしそういう状態であるならば
まずは目を覚ましてください。
そして自分に「気づく」ことからはじめてみてください。
瞑想ときいて何を思い浮べますか?
目を閉じて座禅を組んだりとか
それだけが瞑想ではないと思うのです。
本当の自分と向き合う時間をさすのだと思うのです。
本当の自分と向き合って
自分の意識を拡大していくことだと思うのです。
フォームや呼吸法などさまざまあるようですが
まずはそこまで気にする必要はないと思うのです。
自分と向き合う時間を
忙しさの中で少しだけつくってみてください。
最初は自分の中央(センター)に自分を感じてみてください。
上からくる本当の自分の声をきいて、そのメッセージを大切にしていってください。
自分と繋がることがむつかしいとき
そこでまた、スピリチュアルのツールを利用してみてください。
きっと何らかの手助けになってくれるはずです。
魂を成長させたい、心を成長させたいと思っている人たちへ。
スピリチュアル、はあなたの魂です。
スピリチュアルな商品も、サービスも、
もし必要なら、あなたが操られない範囲で利用してみてください。
本当の自分を大切にしてください。
*
以上があたしがこれまでやってきた、今もやっている方法です。
あくまでもあたしなりのやり方にすぎません。
このやり方で2002年からやってきました。
誰かの真似をするのでなく
自分なりのやり方で自分をみつけてみてください。
最近精神的霊的な内容ばかり書いていますね(笑)
今回もそういう内容がちょっとだけでてきます。
以前スピリチュアルと宗教の共通点で
こんなことを書きました。
<スピリチュアルがはやっているのは確かにストレス社会であることはいえるのだけど
それよりももっと「今を生きていくための救い」を人々が求め始めているのではないだろうか。
あふれかえった物質の世界に疲れ果てた結果、
流せずにいる涙を精神世界に求めているのかもしれない。>
マナーやモラルのない時代、とスピリチュアルも
本質的に実は関係すると思うし
食育とか、核家族化とかも以前書きましたが
そういうすべてが、
あたしの心の底辺ではみんなつながっているのだけど
説明がなんかうまくできなくて歯がゆいです...
表現するのって難しいですね(笑)
今回もうまく表現できないかもしれないけど、察してください(笑)
今は「物質の時代」だからこそ「精神的な何か」を求めるのは
むしろ人間の本能的な防御反応のような気がしてならないんです。
さきほどの一文で
<「今を生きていくための救い」を人々が求め始めているのではないだろうか。>
としましたが、もっといってしまえば「信仰」を求めている気がします。
「生きるために信じられる何か」
を探しているとでもいうのでしょうか。
信仰というよりか「信じられる何か」を求めてるかんじですね。
以前のブログにもよく書いていたのですが
人間は「不確かな存在」だからこそ何か信じることを求めるのだって思うのですよ。
つきつめれば
「何かを信じることで安心感を得て生きる」
とでもいうのかな。
人間は不確かだからこそ、信じることを通じて、
「自分が今、ここに、存在している」
という、確信であり安心感を得たいのだって思うんですね。
潜在的にあるであろう「生きててもいいんだよね?」っていうことへの答えみたいなものだって思うのです。
余談ですが心理学的なことをいえば母親の胎内にいるときに安心感を得ますが
胎内から世の中に出るとその安心感はなくなるわけですから
不安になって赤ちゃんは泣く、ともいわれています。
だから「生きてていいんだ」という気持ちは
ネグレクト(育児放棄)を含む虐待などによりその安心が得られないため
虐待で心に傷を負うと「自分」という存在はますます不確かになると思います。
ヒーリングは「心」を癒します。
スピリチュアルの世界は「魂」を癒します。
ヒーリングとスピリチュアルの大きな違いは
MindとSpiritの違い、だってあたしは思うんです。
というか今のスピリチュアルの場合は特に、
心も魂も、というかんじかな。
生きていくには、心とカラダのバランスだけでない、
心と魂とカラダのバランスが大切なんです。
今は信じられるものがない時代です。
食の安全にしても然り、年金問題とかは今後生きていくためのお金だものね。
医療事故にしても多いからこそセカンドオピニオンを求める人が多く出てきたわけだし、
何かの宣伝じゃないけど「安心はタダでない」ということが身にしみて感じる人が増えてきたわけです。
そっちの話をつきつめてしていくと国債の問題にまでなってしまうから今回はやめておきます(笑)
だけど国が無駄な出費を繰り返す体質のため
赤字を背負い込んだことは国を破滅に追いやることと同じだって思います。
予算をたてる時点で官と民には根本的な隔たりがあるわけです。
それは今でも同じこと。
官の体質が変わらない限り結局は何も変えられません。
夕張のように市が財政破綻するだなんて
10年前は考えたでしょうか?
国の「集団的無責任」と「利己主義の時代」というのは
あたしには、ほぼイコールのような気がしてなりません。
...政治と経済と哲学(と地震w)の話はつきませんね(笑;)
要するに信じられるものが人間だけでなく社会を見渡してみても
ほとんどなくなってきてしまったといいたいわけです。
物質的なもの、目で見えるものが(食にしてもお金にしても)
信じられなくなった時代になってきたため
カタチあるものへの信仰が薄らいできたのかもしれません。
本当に大切なものが何なのか知りたくなってきた、
いや、むしろ、情報もモノもあふれすぎたため
大切なものがわからなくて逆に不安な人が増えているのかなって思います。
それは資本主義という「物質世界」の副産物のような気がしてなりません。
そしてまた、逆に言えば、ある程度生活に苦労していないからこそ余計、
何かをさまよって求めているのだろうって思います。
先日テレビでブータンの難民キャンプについて放映されていました。
「とりあえず食べていけるし住むところもある、
だけど何かが足りない」
彼らの場合は国の場所的に宗教問題があります。
インドと中国という大国に挟まれた国に生まれた人たちの苦悩は
あたしたち日本人にはわかろうとしても難しい部分はたくさんあります。
一部のヒンズー教徒は差別され、チベット仏教がメインの国というわけです。
日本は無宗教の人間が多いですよね。
そしてまたあたしも特定の宗教を持ちません。
もちろん宗教以外にも信じること、もの、対象はいろいろあります。
さきほどいったように「何かの対象を信じる」ということで自分の中に安心感が生まれます。
この典型が宗教なのでしょう。
ブータンの例ではこのように「難民問題」や「宗教問題」などの苦悩があります。
こういう問題をかかえる国に生まれてしまったのは
ある意味「運命」というよりむしろ「宿命」ともとれるのかもしれません。
「苦悩」があるからこそ宗教が存在するのかもしれません。
しかし苦悩を救うためであるはずの宗教が逆に苦悩の原因になっているという矛盾。
あたしが特定の宗教をもたない理由はそういうところ(宗派の対立などの幹部間の利権問題)にあるのですけどね。
物質的には豊かな日本という国に生まれ育つと宗教的苦悩を知る由がないのでしょう。
しかし物質的に豊かでも精神的にはどれだけ豊かなのだろう、
そういうギモンを持つ人が多くなったのは
いわゆるベタな表現をすれば「日本の安全神話崩壊」といったところからきたものだろうと思います。
そんなこんながスピリチュアルブームのバックボーンだって個人的には思うのですが、
だけどなんでここまでスピリチュアルがはやるのでしょう?
これがたとえば10年前だったら、オ○ムの事件があったりして
胡散臭がられたでしょう。
少なくともあたしがヒーリングを始めて
スピリチュアルの世界に足を踏み入れた2002年の時点では
胡散臭いというふうな見方をされていましたよ?
マスコミの影響って本当大きいんだって思いましたね。
スピリチュアルに縁がないだろうっていう人が
平気で「魂」とか「オーラ」って言葉を使っているのを見聞きすると
ぶっちゃけちょっとゾッとしたりします(笑)
たぶんこの人何もわかってないんだろうな〜と思いつつもね。
というか心や魂という目に見えないものを扱う世界なので
あたしもわかったつもりになっているだけなのかもしれませんけどね。
だからこそ日々勉強、です。
たとえば親が生まれてきた子供を殺してしまったり
子供が親を「怒られた」という理由で殺してしまったり
これは親子関係の希薄さを物語っています。
親子関係の希薄さは人間関係の希薄さといえます。
先日も近所の商店街を歩いているとオバちゃんたちが大声で立ち話。
「○○さんのおばーちゃん、なくなってたみたいよ?」
「え、いつ?」
「一週間前、なんかもっと前に亡くなっていて、腐って融けていたんですって」
という会話が日常会話レベルに行われているのは異常なのか日常なのか。
近所づきあいも希薄になってきた現れの孤独死。
孤独死の問題は阪神淡路大震災の後の仮設住宅で問題になり、
今は東京の多摩センターでの団地での孤独死問題もありますが
(団地の上に一人で高齢者が住んでいるといろいろ問題があるわけです)
今後の高齢化社会で孤独死は深刻な社会問題にもっとなっていくだろうと思います。
何度もこちらで書いていますが、こういうとき核家族化の問題をすぐさま思うのですが
現在は核家族どころか「個人」いや「自己」の時代に突入したわけですよね。
「自己」の時代は、さきほども少し書いたけど集団的無責任ともとれるとあたしは思うのですよ。
子供の誘拐殺人事件にしても孤独死にしても地域ネットワークの薄さが指摘されていますよね。
地域で子供を守ろう、などという動きがある中
親子の関係すら希薄になっているのは
最初のうちは
「個の時代特有だな」と思ったりしていましたが
以前書いたけど
”個人主義といいつつ実際には
「利己主義な人間」
が、かなり前から増えてきている”
って思うんだ。
そして自分もお世話になっているから非常にいいにくいのだけど
「個別化」に拍車をかけているのがネットと携帯文化なんだって思う。
(ついでにいえばゲームもそうだと思います。)
ネットという「個」、携帯という「個」
仮想という意味で、ネットや携帯上で誰かと触れ合っていて
そのときは連帯感を得ていても、結局は
「自分の作り上げた世界の中の一人」
という位置づけなのじゃないかって思います。
掲示板なんかで「匿名」な人が目立つのも「責任逃れ」「無責任」の象徴ですよね。
国の集団的無責任は己の時代を作り出している、のか、
その逆なのか、
それは結局どっちでも同じなんですけど、
あたしの中ではどうもこの二つがリンクしてならないわけなんですよね。
誰かと向き合って「対話」をし、感じて、それをまたぶつける、
そういうことが今はなかなかできにくくなってきました。
「異常気象」だと騒いでいても
それは今異常でなくなってきている。
日常になりつつある「異常」。
自然のことは結局、一人一人が根気よく環境を守らなければ地球全体を守れないわけですよね(つまり企業の取り組みが必要ですよね)
親子関係のほうは広くないけど根深い問題だったりもします。
人間関係は心の問題なわけなので
自分の心を変えていけばいつかは必ずわかる日がくる、と思うんですよ。
いや、そう思いたいです(笑)
でもそこで注意すべきなのが
あくまでも、変えるのは「自分の心」であるということです。
決して誰かを変えようとしてはいけない。
要するに誰かをコントロールしたり、支配しようとすると
その報いは必ず自分にいつか返ってくるものです。
誰かを支配したりとか、コントロールしたりとか、
そういうことをする前に
自分の心を変えていくことのほうが
遠回りだけど、人間として本質的に大切だって思うの。
他者をコントロールや支配するという場合には
しっかり自分の心をコントロールできる人がやらないと
舵がとれなくなってしまうって思います。
実際にはそれすら理想論でしかないのかなという気がしてなりませんが。
誰も信じられなくなったような悲しい時代。
モノが信じられなくなった物質の時代。
何かひとつでも、と「信じられること」を求めている気がしてなりません。
もしかしたらこんなこと書いているあたしが一番そうなのだろうなとも思います。
「信仰」「信じること」ってさ、
結局は「自分の心の居場所」なんだよね。
自分の居場所って、自分の心の中に、本当は誰でもあるもの。
「自分の中心」に心の居場所をしっかり作れるような人間になりたいです。
カントとよく比較されるフィヒテのコトバに
「真の永続的恋愛は、尊敬というものがなければ成立しない」
という言葉があります。
これは結婚式のスピーチとかでよく話されるようですが
あたしはこれは恋愛や結婚に限ったコトバだとは思っていません。
親子関係も、親を尊敬する、子を尊重するっていう
そういう関係性が崩れてしまうと「成立」しにくいのかなって
最近のニュースを見てはよく思うんです。
「己(「個」ではなく利己主義の「己」)の時代」」
とあたしがいうのは
相手を尊重する、敬うという基本的姿勢の希薄さだって思うのです。
先日ちょっと書いた「礼節」とも関係してきます。
敬うのは人間だけじゃなく、自然界とか、
目に見えるものでなくて全てのものですよ。
大きな意味で「感謝」ともとれますね。
感謝の気持ちをわからない人に命の尊さなんてわかるはずもないでしょう。
感謝や尊敬は確かに目に見えないものだけど
目に見えないものの中にこそ大切なことって実は多いのだって思うし、
目に見えるものだけが全てではないのです。
どうやらまたえらそうなこと書きすぎました、エヘ(笑)
だけどまた書いていくって思いますww
核心に迫った第二弾w
っていうかんじですねw
ここでしばしばテーマにし、書いていることなのだけど
今のスピリチュアルブームと宗教っていうものを一部混同させて、
そのまま宗教勧誘にもっていくケースが多いのではないか
ということが今回のお題。
今日の朝、とある大きい宗教関連団体が
小冊子をポストにいれていった。
あたしはそれを読んだからといって
そこの信者になることは確実にないという自信があったのでそれを軽く読んでみた。
あたしはかつてクリスチャンスクール(プロテスタント)に通っていて毎日礼拝があって
聖書も毎日読んでいました。
しかし、聖書だの牧師さんの説教にもツッコミいれまくっていたという
あたしのこの心の腐りよう(笑)
要するに常にギモンを抱いているタイプの人間なのだけど
常に疑いを何にでもかけてしまうという悪い癖でもありますねw
その宗教関連団体の冊子には以下のコトバが連呼されていた。
「魂」「オーラ」「カルマ」「天使」「因果」「輪廻」のコトバ。
まさしく典型、である。
信者の方々の写真があったりした。
彼らはなぜか独特の笑顔に思える。
心からの笑顔ではないように思えるのはあたしがひねくれてるからかもしれないけど
かといって営業スマイルでもない独特の「微笑み^^」
「笑顔と赦し」の関係はまた機会があったら書きます。
あたしは基本的にアキっぽいし、虫のいい人間なので
これまで宗教論や哲学、ヒーリング、スピリチュアル、心理学、社会学、精神分析、精神医学と
さまざまな世界を「かいつまんで」きた。
ひとつの世界にどっぷり浸るのもいいけど
あたしはいろんなことを知識として貪欲に吸収していきたいし
それらをいずれ智慧に変えていければいいナと思っている
(それがうまくいかないのだw)
自分では現在、これが「正義」だ。
クリシュナ・ムルティは「あなたが世界だ」といったけど
(Vol.45 ヒプノセラピー参照)
他人からみてたとえ
「あの人はいろんなものが中途半端だよねw」
と思ったにしても、確かにそれは事実なんだけど(笑)
あくまでもあたしはそのやり方で通しているのは
あたしにとってこれが正しいし必要性もあるし、あっていると思うからだ。
そして宗教にハマる人というのもこれもまた自分にとっては「正義」。
いくら他人がマインドコントロールされているとその人以外のすべてが思ったにせよ
その人にとっては正義なのだ。
その入ってきた宗教冊子は「正義」が散りばめられていた。
それをかいつまんでいうとこんなことがかいてある。
(ひらがなもふってあったので小さい子にも読めるようにしたのでしょう)
「総理大臣や大統領は光の天使ではない」
↓
「ナチスドイツでガス室にいれられたのは特に悪いことをしたわけではない」
↓
「キリストも十字架にかけられた犯罪人になってしまう」
↓
この世の中はよい行いをしたからといってよいことがおきるわけではない。
といってむすんでいる。
となるとどうか。
そこで「来世」についてでてくるのだ。
「過去世での修行や行いが現世に展開されている」
「現世ではカルマがのこってその宿題が来世に持ち越される。」
確かにそうだ、というか、そういうことになっている。
さっきまでキリストは救世主だと話していたのに
いつのまにか親鸞の三世因果について話が摩り替わっている。
これじゃツッコミ入れてくださいよ〜っていわれてるかんじじゃないすか(笑)
これについては因果経に
「前世の因を知らんと欲すれば其の現在の果をみよ、後世の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
と記されている。
過去やったことが今のいわゆる業(いわゆるカルマの)で今やっている行いが来世につながっていくのだよということなんですがね。
この冊子では解釈の仕方がちょっと違うようで。
そもそも
「この世の中はよい行いをしたからといってよいことがおきるわけではない。」
という考え方自体があたしにとっては「正義」ではないのだ。
キツイ言い方をすればそれらは逃避にしか見えないのだ。
たとえばそれがカースト制度とかの自由のない身分関係のものだったり
そういう変えられない運命的なものがあればそういった宗教の必要性もわかる。
それをいうとあたしなりの宗教論になってしまうので
ここでは検索されたりで、書きにくそうなので書かないけど
「過去世での修行や行いが現世に展開されているから、
現世でこんな状況なのは仕方ないから来世に期待をかけよう」的な思考は
あたしの中では少なくとも一切持ち合わせないのは確かだ。
そしてそのあたりがスピリチュアルと宗教の大きな違いでもあるのではって思うんだよね。
スピリチュアルはそもそもアニミズムに限りなく近いと思うのだ。
スピリチュアルの世界だと、過去世という考えはでてくるけど
来世に対する考えは目にしたことがこれまであたしはない。
おそらくスピリチュアルの世界っていうのは
過去世からのカルマを現世で癒して、生きている間は魂を成長していく
という考えに基づくのだからだと思う。
だって今、生きているんだもん、今を楽しまないとって思うよ。
だけどそこの宗教の祖がいうには、そういうものは「エゴ」にすぎないといっているようなのだ。
ちょっと考えればエゴというコトバの用い方がなんだかおかしいことに気づくはずだ。
しかし心迷える人たちは、おそらくそれすらも気づかず
何かにすがってしまいたい気持ちでいっぱいだろう。
ここでフロイトやユングの話はあえてしないけど、
人間は生きている限り「エゴ」は必ずあるものだ。
それはモチロン決して悪いことなんかではなく、
人間としてイデア界に実存している証だ。
もっといえばエゴ(自我)があるからこそ自らが存在しうるわけだし、
ゆえに哲学が、形而上学が存在しうるのだと思う。
(ちなみにトマス・イクイナスが存在論を形而上学の基礎に構成した)
〜私は思う。ゆえに私は存在する〜
(Cogito, ergo sum. ; Je pense, donc je suis.)
などは哲学を知らなくても聞いたことがあるくらいに有名な
デカルトのコトバだ。
...というか哲学の話をしだすと暴走しそうなのでやめときますが(笑)
自我は自分そのものの意識だ。
そしてイドという無意識の部分、いわゆる本能的欲求の部分があって、
スーパーエゴ(超自我)とよばれる、倫理的な善行を伝えるもの(殺人はいけないとか)
そういう3つがうまくバランスをとりながら、時には葛藤しつつ生きている。
ちなみにスピリチュアルでいうところのハイヤーセルフや天使の存在、魂という言葉は
おそらくは、わかりやすくいえばスーパーエゴの認識に近くて
さらにそれを越えた自己拡大意識といったところか。
考えてみてほしい。
そもそもエゴ、いわゆる自我を無くした状態こそが
マインドコントロールにほかならないのではないか。
この教祖様は「エゴはよろしくない」とおっしゃられてるらしく
いったい何を自分からいっておられるのかと、
もしやご乱心だったのかと(笑)
ひねくれ者のあたしはこう思うんですよね(笑)
自分が生きて自分の心を自分でコントロールしている限り
それはエゴであるわけで、
誰かにコントロールされている状況というのはエゴを失った状態であり、
マインドコントロールなわけですよね。
そもそも煩悩を捨て去ることとエゴを捨て去るというものはまったく違うもの。
煩悩とは自分を苦しみ悩ませる、智慧を妨げる心をさすわけだから、
あたしなんて煩悩オンリーですよ(笑)
その冊子には三世因果(仏教でいう過去世、現在世、未来世の因)について
「もっともらしく」かかれていたり
浄土真宗がでてきたと思えばキリストの教えがでてきたり、
かと思えば政治の話がでてきたり
哲学の話が出てきたり。。。
あたしも確かにそういう中途半端な人間ですけど(笑)
だからなおさら思うのだけど
「それにしても中途半端な宗教だよなw」ってね。
もしどんなにそれがいい教えだったとしても、
その教えを「聖典」や「聖なる書」にしてしまった時点で
その教えは息をしていないとあたしは考えています。
なぜならば現在の世界状況を見ても明らかなように
純粋な信者とそれの政権を握った人たち(幹部など)の間では
かなりの温度差があるのではないのでしょうか。
その時点で、どんなにいい教えもその機能を果たしていないのだと思ってしまうのですよね。
苦しいから、悲しいからこそ生きているって感じるんですよ。
苦しみや悲しみを知らない人には喜びや楽しさはわからないって思います。
時に絶望を味わったとしても、
だからこそ喜びを味わえるというのは
病気をしてみて初めて健康のありがたみがわかるのと同じだと思うのです。
初めて健康の大切さとか感謝の気持ちをいっそう強く実感できるのです。
そして、あらゆる宗教の教えというものは
愛について説かれていたりしますが
愛なんて誰に教わるものでなく
(心理学的にいえば母親から教わるわけなのですが)
幸せの定義だなんて誰にきめられたものでもなく
自分の中の経験と智恵から得られるものでもあると思うんです。
誰かとの共有体験じゃないのか!と思うだろうケド
誰か、の本当の気持ちはその「誰か」しか知りえません。
自分という意識が感じる誰か、でしかないと思うのです。
遠まわしに「愛なんて結局幻想よね〜w」
っていってるように聴こえますかw
いや、愛は自分の中に誰にでも備わっていて(いわゆるスーパーエゴみたいなもの)
それをさまざまな経験をもって感じたこと(いわゆるエゴ)
を栄養にしながら育てていくものじゃないかってことをいいたいわけです。
神の存在についての是非やスピリチュアルの世界でよくいわれている「天使の存在」もだけど
人間固有がそれぞれもちあわせるアーキタイプとか元型っていわれる存在だって思うのですよね。
まぁ色気も味気も夢もない表現ですがw
あたしは誰かに与えられた定義より
自分を見つめて、自分なりの経験や智恵をもって
一生かかって愛とか幸せとか豊かさを
その時々にカスタマイズしながら作りあげて生きたいって思います。
愛も幸せも豊かさも真理も、
生きている人の数だけあるものだって個人的にとても思うんだよね。
あたしにとってスピリチュアルもヒーリングも、
そういうものを作り上げるためのツールでしかないのです。
豊かな人生を送るための手段であって目的ではないのです。
あたしはそのツールとして選んだのがたまたまスピリチュアルやヒーリングであったってだけであって
何を用いてその人が幸せになるかというのは
個性とか性質とか、その人それぞれだって思います。
そんなふうにスピリチュアルと宗教というのは極めて似た部分(コトバ)を持つのは確かなんだけど
少し興味を持ってスピリチュアルを調べていけばそれらはまったく違うことがわかるはずなのだよね。
しかし某テレビ番組などの影響などもあって
魂とかオーラとかカルマとか、
そういうコトバだけが走ってしまっている気がしてならない。
あたしはそれにすごく危険性を以前から感じている
(よってその番組は見たことが一度しかない)
おそらくはヒーリングとスピリチュアルの違いすらわからない人も多いのではないだろうか。
今、霊感占いといっては宗教にもっていく、いわゆる霊感商法が去年から多発しているそうだ。
たしかにこれは自己責任とはいえ、マスコミが魂だ、オーラだカルマだと煽った功罪は大きい。
しかし、それ以上に何かにすがりたいがために
自分の全てをそういう方面(スピリチュアル)にもっていくことの危うさをも秘めていると思うのだ。
なぜそのような番組がはやるかといえば、
やはり誰にも相談できず、もしくは相談しても解決できず
悩んで苦しむ人やストレスを抱え込んでいる人が実に多いからだと思うのだ。
スピリチュアルにハマりすぎるのもグラウディング、
要するに地に足をつけられない状態っていう、それもまたある意味危険なのだけど。
(だって「現実界」に生きているわけだからね)
現実、現世に生きている以上、
それは日常生活を伴うものだし、
息抜きとしてのスピリチュアルやヒーリングならばいいのだけど、
実際問題生きていればムカつく、ウザいことだってたくさんあるし
逃げたいくらいに悲しいことや苦しいこともたくさんある。
そこをどう生きていくか、乗り越えていくか、というのが
まさに智恵であったりするのだと思うのですが
そういう状況に直面したとき、
自分がどう受け止めて、どのように自分の心とうまくつきあって
状況を脱しどうやってよりよく生きていくか、
そういうのはやはり
「経験や知識をベースにするもの」
ってあたしは思うんだ。
失敗をするからこそ、苦い思いを幾度となく経験して
次回はこうならないように、
じゃ、次のプロセスではどうすべきなのか考えよう、
...とよくしていくことを考えるわけだ。
要するに失敗を繰り返さない限り成功は決してありえないわけで
なんだかどこかの成功哲学の本みたいな偉そうなことをいってますが(笑)
逆に言えばあたしのMy哲学からいえば人生に成功っていうのはないんだよ。
以前も「勝ち組」「負け組」ってコトバ(競争社会)がイヤだと書きました。
だって成長のペースっていうのは人それぞれだから
勝ち負けを早くつけようとするのはどう考えてもおかしいと思うんだ。
勝ち組と世間からいわれてた人が必ずしも
「内なる幸せや豊かさ」(←これもスピリチュアルの世界でよく使われるw)を感じているとは限らないだろう。
「成功したから自分は勝ち」と思ったら
その人の成長はそこでもうおしまいだと思うのだ。
あたしも大学に受かったとたん勉強手抜きしまくったもん(爆)
今になってもっとマジメにしてればこんなアホにならなかったって思っていますよ(苦笑)
要するに、ここまではやってこれたけど自分の成功はまだまだ先だって思って自分を追いかけていく人こそ
真の意味で豊かであり幸福なんだと思うのだけど、
どうだろう。
要するに日々精進すべきなんですよ。
何よりもそういう向上心が生きていくうえで、
生きがいっていう意味でもっとも大切なんだって思います。
それは介護をやっている今現在祖母をみていてすごく実感しています。
介護に携わるうちに人生の生きがいというものについてすごく考える機会が増えました。
失敗があるからこそ成功を目指して向上しようとできるのだよね。
ゆえに智慧というのはこれまで自分が生きてきた証のデータベースなんだろうなと思うようになりました。
今スピリチュアルが確かにはやっています。
数年前までヒーリングブームで「癒されること」に重きをおいていたのが
誰かを「癒したい」人というのも増えてきた気がします。
マクロビオティックがはやったりレイキをやる人も少しずつ増えてきたり
日本は日本に戻ろうとしてるのかなって最近よく思います。
いわば免疫力みたいなものですね。
そしてそのスピリチュアルの延長という感覚なのか
古神道も注目されはじめたりしています。
中でも注目を集めているのは岡本天明氏の自動書記によるといわれている
日月神示(ひつきしんじ)。
たとえばマナーがなっていなかったり、
人に迷惑をかけていることすらわからずにいるという
「感覚が鈍ってる人」が多すぎるよね。
自分勝手な人が多いとはいうけど、
あたしからいわせたら個人主義と利己主義を履き違えている人が目に余るほどいる気がします。
日本が美徳としていたものは、そもそもは礼節だったのではないかと思うの。
スピリチュアルがはやっているのは確かにストレス社会であることはいえるのだけど
それよりももっと「今を生きていくための救い」を人々が求め始めているのではないだろうか。
あふれかえった物質の世界に疲れ果てた結果、
流せずにいる涙を精神世界に求めているのかもしれない。
そんなわけで日月神示云々や宗教抜きとかでも
もっと日本はあるべき日本の姿に戻るべきなんだって思います。
いや、今話題の「美しい国日本」とかいってる人にはまずムリかと思われますがw
一人一人の思いやりと感謝とが大切ですよね。
以下「日月神示」より抜粋しました。
友人に教えてもらったサイトにあったのですが
もし興味があれば長いですが読んでみるのもいいと思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/161030.htm
目の前のおかげではなく永遠の立場から良くなるおかげがマコトの
おかげ。
天国を動かす力は地獄であり、光明を動かす力は暗黒である。
地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。
因が果にうつり、呼が吸となりゆく道理に於いて歓喜は更に歓喜を
生ず。
その一方が反抗すれはするだけ他方が活動し。また強力に制しよう
とする。
この道は因縁なくては判らん難しい道であれど、この道貫かねば世
界は一平にならんのぢゃ。
縁ある人は勇んで行けるのぢゃ。
一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ。
元の神代に返すというのはたとえでないぞ。
穴の中に住まなならんことも出来るぞ、生の物食うて暮らさななら
んし臣民取り違いばかりしているぞ。
何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの欲ばかり言っていると
大変が出来るぞ。
官は潰され御分皆、火にかけられ灰となる。